手紙
ちゃんと元気に生きてるよって伝えるために、両親とは月1くらいで会っているんだけれど、会うたびにほんとに自分は両親に何も親孝行できていないなって思ったりする。そもそも親孝行って何だろうって考えたりするんだけれど、僕はもう生きているだけでれっきとした親孝行だと思っている。こう言うと、自分がまともに親孝行できていないことに対して、言い訳や正当化しているみたいに聞こえて、また自分が嫌になることもあるけれど、生きているという確固たる事実だけで幸せだって思えるし、この世に自分という存在を見出してくれてありがとうって気持ちで胸がいっぱいになったりする。両親の気持ちは、僕が思っている以上に計り知れないし、すべてを知ることは到底不可能だけれど、僕に対する断片的な期待を少しでも汲み取って、これから生きていく糧にしていけたらいいなあって思う。
最近はよく「好き」っていう、どこまでもあやふやで曖昧な気持ちについて考えることが多くなった。特に今年に入ってから、この言葉を使う機会がとても多くなったのだけれど、発言する回数が多くなるに比例して、この言葉の中核的な意味が分からなくなっている。「好き」という言葉は、一般的には愛情表現としての意味をなす場合が多いと思うんだけれど、軽い気持ちで使ってしまっている自分に少し罪悪感ややるせなさを感じてしまったりする。それと同時にやっぱり、愛を伝える一番ストレートな方法は「好き」って言葉にすることだと思うし、それ以上も以下もないって思っている。普段のふとした行動や、不意に見せる仕草とかで、人は恋に落ちてキュンとしたりすると思うけれど、やっぱりちゃんと言葉にして伝えなきゃ、どれだけ心のなかで想いを募らせたとしても、それは言葉にして伝えていないのと同義なわけであって、だから不器用でも下手くそでもいいから、身体ぜんぶを使って「好き」を共有し合いたいなって思ったこの頃でございます。染めているのか、染まっているのか分からなくて、恋愛って難しいなあって、人間って難しいなあって思いながら、その中に今まで経験したことのない気持ちや思いも数えきれないくらいあって、自分のなかに少しずつ「幸せ」って気持ちが芽生え始めているのを実感するのだけれど、それでもやっぱり不安やプレッシャーは常に付きまとっていて、自分ってとてもめんどくさい人間だなあって思ったりする。でもおそらく、こんな考えはほとんどの人たちが頭のなかで巡らせていると思っているから、みんな同じ不安を抱いているんだって思うだけで、少し気が楽になったように感じたりもする。でも裏を返せば、心のどこかで、他の人より優れている、みたいにちょっとした優越感に浸っている自分がいるような気がして、素直に楽になれないときもある。そういったこと全部ひっくるめて、自分めんどくさいなあって思うけれど、こんな自分もやっぱり好きだったりするし、人間って面白いなあって思ったりする。だから、ずっとずっと大切に思ってくれる人も自分自身も「好き」でいたい。“永遠”なんて絶対ないけれど、少しでもお互いの人生に光を見出せたら、それが一番の幸せなんじゃないかなあって思います。にゃー。猫飼いたい。
では☆☆☆☆