Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

木洩れ日とプリン

靄がかかった頭の中に追い打ちをかけるように、文明の利器を通じてやってきた果てしない情報たちがガツンと目の前に現れる。まるで小学校の体育の時間にやったドッヂボールみたいに、容赦なくポジティブな情報もネガティブな情報も目に見えるボールとして頭にぶつかってくる。あの頃は頭はセーフだったけれど、今じゃもうアウトなのかもしれない。というかドッヂボールで頭に当たったらセーフっていうよく分からないルールは何なんですか?むしろ頭にボールをぶつけた人をアウトにしてほしいくらい。

 

自分から見る自分と他人から見る自分は同じようで全然違っていて、その見え方が違うことの振り幅に驚いたりする。それが生きることの面白いところだったり、残酷なところだったりもする。他の人たちを見渡すと、まるで自分が見える自分と他人が見える自分が完全に一致しているような、そんな素振りをしている。歩いているだけで自信ありますよオーラというか、生きている事すべてが楽しくてうまくいっています的な、あの無敵で到底かなわないような。駅や街中を歩いていると、どこか行き急いでいるように、颯爽とどこかへ向かう人々の雑踏に押しつぶされそうになる瞬間がある。その1歩1歩が、まるで今まで生きてきた人生のすべてを表しているかのような。もしかしたら自分が歩くスピードが遅いから強くそう感じているのかもしれない。

 

仮に自信という概念の取扱説明書があったとして、僕はそれをうまく組み立てて自分にくっつけることができない気がする。これまで幾重にも自信に関する自己啓発の類を見たり聞いてきたりしたけれど、結局人ごとのように右から右に流されて知識として取り入れて終わっていく。たくさんの情報を耳にしてきたけど、それを自分の中でうまく咀嚼して取り入れることができないまま、無駄に知識だけが増えていく。インプットをしてもうまくアウトプットできない自分がたまにいやになったりして、またインプットしての繰り返し。何だか、こう、一周まわってモヤモヤしている自分を楽しんでいる自分がいたりして、そこに生きている意味みたいなものを見出している気さえする。いや、もしかしたら人って悩んで悩んで悩む生き物なのかもしれない。

 

たまにおぼつかないままギターを触っていると、集中のゾーンに入ったりして、時間を忘れて弾き続けているときがある。鳴っている音の一つ一つが全身に澄み渡って、小説を読んでいるときのような、5時間目の国語の授業に、教室の窓から入ってくる暖かいそよ風が教科書をパラパラめくるような、この瞬間がずっと続けばいいなみたいな、どこか遠くを見つめている豊かさの存在を感じたりする。

 

ピックと弦の摩擦で小さくて大きな1音が鳴るとき、極めて繊細で素粒子的で刹那的で鋭利的な、心地よさをじっくり噛み締めている自分がいたりする。少しのフレーズの耳コピをしようとして、1音を探している瞬間は、どこかああでもないこうでもないと、人生を彷徨っている自分自身みたいで悲しくて面白い。こういう時に限って、探していた音が意外と近くにあったりする。

 

「取扱説明書通りに生きてたまるかよ」って、小林賢太郎さんの演劇作品を観たときに、一番心に残っているセリフがあって、また生きることについて考える機会が巡ってきた。幸せってなんだろう?生きるって何だろう?って、これから先も頭パンクするくらい自分に問い続けるんだろうなあと思うと、苦しいけれど少し楽しかったりする。この少しの楽しさが、木洩れ日みたいに一筋の希望として描かれるからこそ、生きていけるんだと思ったりする。答えのないPDCAを永遠に回してる状態。一見、無駄かもしれないけれど、この無駄を愛することで、何とかやっていけそうな気がする。

 

焼肉とプリンが食べたい。