Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

微睡み

つまるところ、体育の授業でチーム戦の競技をやっているときに、自分がミスをしたらどこからか聞こえてくる「ドンマイ」という言葉に、ものすごく助けられていたような気がする。背負っていた重い荷物が外されて、スッと心が軽くなったような。負の感情が消されるだけじゃなくて、何か次に進むためのモチベーションのトリガー的な役割までも担っていた。その言葉は“誰が”発したのかは全くもって関係なくて、もはやその言葉、すなわち母音と子音と喉を震わせて出てくる音だけで、こんなにも人の心が揺さぶられるのは、一体何なのだろうと不思議におもう。

 

言葉というものに、こんなにも敏感になったのはいつからだろう。先天的か後天的なのかも分からないまま年を重ねながら、耳にしてきた数々の言葉たちに良い意味でも悪い意味でも翻弄されてきた。自分が思っている以上に、自分に向けられた言葉は意外と覚えているもので、ふとした瞬間に何気なく思い出すことがある。これは、いじめた側の人間はあまり覚えていないけれど、いじめられた人間はその経験を長い間覚えていたりするよね、という話と似ている。もしかしたら、自分に向けられた言葉も同じように、脳にインプットされて記憶として処理されるかたちはどこか類似しているのかもしれない。現に誹謗中傷という言葉があるように、人は他人から受けた言葉を、心のどこかでは攻撃的、とまではいかないけれど、そういう心の負の感情のトリガーを引くレバー的な役割を担っていると思ってしまっているきらいがある気がする。

 

これまで二十数年生きてきて、自分が耳にしてきた言葉は、圧倒的に嬉しい類のものが多いのだけれど、やはりネガティブなワードが持つパワーは頑丈で強靭で猛烈で、グサグサと心の中を平気で土足で入ってくるような、ポジティブなワードとは比べ物にならないくらい鋭利なものとして映る。おそらく大半の人は、どのような強敵が立ちはだかってきたとしても、“気にしない”の精神でうまく世の中を生きているのだとおもう。というかそれが出来て当たり前という暗黙な了解的なものが、生きる上での土台として、逃げ場のなさと同時に、もうそこにただただ存在している。

 

きわめて繊細でHSP的な気質は、自分でも困っちゃうくらいにどうしようもなくて、何を言われても平気な顔をしている人を見るたびに尊敬の念が禁じ得ない。持ち前の心の弱さを発揮するたびに、信用や信頼という言葉にも嫌われたりして、なんだかもうこの先うまく生きることはできないんだろうなって、そんなことを考えてしまって憂鬱な気分になる。「慣れ」という言葉があるけれど、こういう落ち込んだり気分が沈んだりするネガティブな感情に「慣れ」という概念は存在しないような気がする。何度だって落ち込むし、同時に全く一緒の感情になるなんていうのは幻だ。何だかよくわからない複雑な感情が入り混じって、ニュートンアインシュタインも解けない方程式がずっとそこにあって、解けずに解かずにそれにずっと苛まれているような。

 

というか他人の発した何気ない言葉で、いちいち気分を変えられるなんてめちゃくちゃコスパが悪い。ポケモンの技でたとえると、相手の打ってきたみずてっぽうで、大ダメージを食らってしまっている状態だ。相手からしてみれば「僕、別にハイドロポンプ打ってませんけど?」といった感じだろう。僕からしてみれば、みずてっぽうだろうがハイドロポンプだろうが、相手からの攻撃ということに変わりはないのだ。というか、もうとっくに水で溺れている。

 

気づいたら7月も中旬に差し掛かって、まだまだ梅雨で、空はまだ曇り模様、まるで自分の心模様を投影しているかのような気がしますね。なんだか、こういうのをすべて笑い話にして楽しめるようになったら、もっと楽に生きられるのかなあと思ったり。正攻法があって、それに沿った行動をしてみても、すべてが上手くいくことなんてなくて、だから生きていくことに難しさや楽しさを感じるような。そんな気が。する。何の話ですか、これ。