Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

BUMP OF CHICKENの銀婚式─Silver Jubileeに参列したら「好き」が溢れてた


ライブ──生で音楽を聴くことが久しぶりすぎて、前日になっても全く実感が沸かないまま、「Silver Jubilee」当日を迎えた。電車で会場まで向かうドキドキや、ライブに参戦する人たちで埋め尽くされた会場付近の賑わいが、遠い過去のライブの日の記憶とリンクして、デジャヴみたいに「この感覚、どこかで…」と小さくざわめきが走った。コロナ禍になって、当たり前が当たり前に流れることさえ許されなくなった窮屈な毎日に慣れていたから、楽しかった遠いライブの記憶が忘れてしまっているんじゃないかっていう不安もあったけれど、ライブ当日を迎えて目の前の光景を見たら、忘れている不安さえ忘れて、私の中で積み重なっていた幾重ものキラキラしたライブの記憶が一瞬で蘇った気がした。

ライブの公演時刻になり会場が暗転する。1曲目の「アカシア」のイントロが流れてきた瞬間、そこで初めて「これがライブだった...」と、すべてを肯定されたような気がした。いつも聴いているバンプの音楽が、今この瞬間、目の前で生で演奏されていることの、決して当たり前じゃない、この奇跡的で幻想的な空間。全身で音楽を浴びて鼓動にリンクする感覚がちゃんと生きていることを証明してくれているような。シュレーディンガーの猫みたいに、冷静と興奮がお互いに重なって共存しているような。そんな感覚を抱きながら、ライブパフォーマンスはとめどなく続いていった。

「天体観測」では藤原の肉声で「オーイェーアハン」が、「なないろ」ではサビと連動してPIXMOBが七色に、「宇宙飛行士への手紙」では尊くて可愛いフジケラトプスが、それぞれ1曲1曲が丁寧に私のドーパミンやアドレナリンの分泌を促してくる。約2年半ぶりのライブという膨大な空白を感じさせないほどに、と言うよりむしろ、ぽっかり空いた空白までも埋め尽くしてくれるような暖かいエネルギーをもらったような。

「これから暗い曲をやります」という藤原のMCから繰り出された曲の中に「Small world」が入っていて、藤くんが「Small world」を「暗い曲」と認識していることに驚きを隠せなかった。子どもから大人まで超絶大人気のゆるふわキャラクターである「すみっコぐらし」の映画主題歌で、メロディーも明るい感じなのに「暗い曲」群にノミネートしている藤原の感性が好き好きの好きです。

新旧織り交ぜのセットリストが、ジェットコースターのように私の感情を好きなように弄んでくる。この感覚、嫌いじゃない。11曲目の「Aurora」のイントロが聞こえた瞬間、前回のツアー「aurora ark」が脳裏に浮かび、リアルに一瞬だけ「aurora arkツアー」にタイムリープしたのかと思った。なぜなら、毎回のツアーで1曲目に演奏される曲はアルバムのリード曲で、なおかつ固定セトリであるため、とても鮮明に記憶に残っているからだ。(WILLPOLISは「Stage of the ground」、BFLYでは「Hello,world!」など)過去のライブツアーで、毎回1番最初に演奏していた曲が、こうしてライブの中盤辺りで演奏されると、楽曲の聴こえ方がまるで違ってくる感じがする。それはきっと感情がグラデーションであるからだと思う。

「最後の曲です。今日は本当にどうもありがとう」からのメーデーで本編は終了。アンコールでは、私がめちゃくちゃ聴きたかった「クロノスタシス」が演奏され、脳内ではコナンくんの映画を走馬灯のように思い浮かべながら生の音楽に入り浸るという、チョコレートやキャラメルにも負けないくらい濃密で濃厚すぎる時間を堪能した。

そしてまさかの「新曲」と「BOCのテーマ」というスーパーファンタスティックゴージャスナンバーが披露され、バンプオブチキン好き好きの好きですこれからもよろしくお願いしますマンになりました。

昨今のような声が出せない状況下でのライブで、今まで皆が歌ってくれた部分はそのままにして残しておく理由を、「学校で仲の良い友達がやむを得ない事情で休んじゃった時にできた空席」に例えて、「ずっとその友達を待っている感覚」と表現した藤くんのMCが1番印象的で、「このMCに藤原基央のすべてが詰まっている…」と思ったし、「好き」が最高到達地点に達して、これからもずっと好きで、今以上にもっと「好き」が加速していくのだろうと思いました。

最後に、ヒロのMCが全部「ひらがな」で可愛かったです。安定・安心・ゆるゆるのヒロすぎて、もはや実家かと思いました。

「親知らず抜歯 TOUR 2022 -Final-」ライブレポート "ベテラン歯科医師が奏でる素敵なアンサンブル"

私は3月13日(日)に、近所の歯科クリニックにて、親知らず抜歯ツアーファイナルをおこなった。抜歯がおこなわれたのは右下と左上の親知らずで、それぞれ約1ヶ月の間隔を空けてゆっくり計画的に進めていったという。今回のツアーは小中学生の頃にリリースした「歯並びの矯正」以来の歯医者さんで、実に10年以上ぶりのライブツアーとなった。

ツアー開催の発端となった出来事は、去年の年末から少し奥歯に痛みを感じ始めたことである。当本人もこのまま放っておくとヤバいのではないかという危機感を感じていたという。そのため、急ピッチで近所の歯医者さんに予約の電話を入れ、隠せないドキドキを纏いながらツアーは開催された。

かなり久々の歯医者だったため、前日は眠れないほど緊張しており、脳内に「親知らず抜歯」というワードだけが巡り巡っていたという。「親知らず抜歯」という、今までに経験したことのない大きな壁を目の前に、自分の中にある「弱さ」や「不安」と戦いながらも、ツアーは幕を開けた。

リクライニング式のスーパーチェアユニットと全自動うがい台といった豪華なステージセットや、私の顔を明るく照らす照明演出など、親知らず抜歯のパフォーマンスをより効率的におこなう準備が整った会場で「親知らず抜歯ツアー」は開演時刻を迎える。

リクライニングユニットがゆっくり水平に傾き、きらびやかな舞台照明が私を照らす。歯医者独特のあの器具の「ウィーン」という音が会場に響き渡り、会場のボルテージは最高潮に達した。院長の「口をあーんとしてください」が始まると、私は成す術もないままにおもむろに口を開ける。醜態をさらすかのような私の姿は、幸い目元に覆いかぶさっていたタオルによって何とか事なきを得た気がした。すると安堵する間もなく「表面麻酔」が繰り広げられる。そして畳み掛けるように「ちょっとチクッとしますよ~」からの「麻酔注射」が始まり、五臓六腑のドキドキに追い打ちをかけていく。

冷静に考えれば、歯の根元に注射をするなんで正気の沙汰じゃないような気がするが、できるだけ不安にならないように、とても丁寧で温かみのある言葉で接してくれる院長さんのMCや、歯科衛生士さんの合の手で、張りつめていた心が少し和らいだ気がした。

「麻酔注射」が終わったあとは、いよいよ抜歯に取り掛かっていく。「痛かったら右手を挙げてくださいね」という院長さんの言葉がオーディエンスに響き渡る。私は、院長さんの言葉に応えられるか分からなかったが、抜歯最中に少し痛みを感じ、咄嗟に右手を挙げた。それはステージとオーディエンスが一体となった瞬間だった。決死の覚悟で挙げた右腕は「麻酔注射 追加ver.」を呼び、さらにフロアは激しい熱気に包まれる。再び、院長さんからの「痛かったら右手を挙げてくださいね」という言葉が体に染みわたる。2回目は右手を挙げることなく、院長さんと歯科衛生士さんの素敵なアンサンブルによって、無事に親知らずの抜歯が終了した。

最後に、抜歯した奥歯にガーゼを詰めてもらい、ようやく抜歯が終わった安心感を噛み締めるように、強くガーゼを噛んだ。オーディエンスからは、割れんばかりの拍手喝采が飛び交っていた。親知らず抜歯という未知の出来事から来る「不安」や「緊張」から解き放たれた涙は、奥歯に詰めてもらったガーゼに沁み込んだ綺麗な赤い涙に変わっていた。

こうして無事に「親知らず抜歯 TOUR 2022 -Final-」は、先進の医療技術と温かい人たちの温かい言葉に包まれながら幕を閉じた。

おわりーーー。

木洩れ日とプリン

靄がかかった頭の中に追い打ちをかけるように、文明の利器を通じてやってきた果てしない情報たちがガツンと目の前に現れる。まるで小学校の体育の時間にやったドッヂボールみたいに、容赦なくポジティブな情報もネガティブな情報も目に見えるボールとして頭にぶつかってくる。あの頃は頭はセーフだったけれど、今じゃもうアウトなのかもしれない。というかドッヂボールで頭に当たったらセーフっていうよく分からないルールは何なんですか?むしろ頭にボールをぶつけた人をアウトにしてほしいくらい。

 

自分から見る自分と他人から見る自分は同じようで全然違っていて、その見え方が違うことの振り幅に驚いたりする。それが生きることの面白いところだったり、残酷なところだったりもする。他の人たちを見渡すと、まるで自分が見える自分と他人が見える自分が完全に一致しているような、そんな素振りをしている。歩いているだけで自信ありますよオーラというか、生きている事すべてが楽しくてうまくいっています的な、あの無敵で到底かなわないような。駅や街中を歩いていると、どこか行き急いでいるように、颯爽とどこかへ向かう人々の雑踏に押しつぶされそうになる瞬間がある。その1歩1歩が、まるで今まで生きてきた人生のすべてを表しているかのような。もしかしたら自分が歩くスピードが遅いから強くそう感じているのかもしれない。

 

仮に自信という概念の取扱説明書があったとして、僕はそれをうまく組み立てて自分にくっつけることができない気がする。これまで幾重にも自信に関する自己啓発の類を見たり聞いてきたりしたけれど、結局人ごとのように右から右に流されて知識として取り入れて終わっていく。たくさんの情報を耳にしてきたけど、それを自分の中でうまく咀嚼して取り入れることができないまま、無駄に知識だけが増えていく。インプットをしてもうまくアウトプットできない自分がたまにいやになったりして、またインプットしての繰り返し。何だか、こう、一周まわってモヤモヤしている自分を楽しんでいる自分がいたりして、そこに生きている意味みたいなものを見出している気さえする。いや、もしかしたら人って悩んで悩んで悩む生き物なのかもしれない。

 

たまにおぼつかないままギターを触っていると、集中のゾーンに入ったりして、時間を忘れて弾き続けているときがある。鳴っている音の一つ一つが全身に澄み渡って、小説を読んでいるときのような、5時間目の国語の授業に、教室の窓から入ってくる暖かいそよ風が教科書をパラパラめくるような、この瞬間がずっと続けばいいなみたいな、どこか遠くを見つめている豊かさの存在を感じたりする。

 

ピックと弦の摩擦で小さくて大きな1音が鳴るとき、極めて繊細で素粒子的で刹那的で鋭利的な、心地よさをじっくり噛み締めている自分がいたりする。少しのフレーズの耳コピをしようとして、1音を探している瞬間は、どこかああでもないこうでもないと、人生を彷徨っている自分自身みたいで悲しくて面白い。こういう時に限って、探していた音が意外と近くにあったりする。

 

「取扱説明書通りに生きてたまるかよ」って、小林賢太郎さんの演劇作品を観たときに、一番心に残っているセリフがあって、また生きることについて考える機会が巡ってきた。幸せってなんだろう?生きるって何だろう?って、これから先も頭パンクするくらい自分に問い続けるんだろうなあと思うと、苦しいけれど少し楽しかったりする。この少しの楽しさが、木洩れ日みたいに一筋の希望として描かれるからこそ、生きていけるんだと思ったりする。答えのないPDCAを永遠に回してる状態。一見、無駄かもしれないけれど、この無駄を愛することで、何とかやっていけそうな気がする。

 

焼肉とプリンが食べたい。

微睡み

つまるところ、体育の授業でチーム戦の競技をやっているときに、自分がミスをしたらどこからか聞こえてくる「ドンマイ」という言葉に、ものすごく助けられていたような気がする。背負っていた重い荷物が外されて、スッと心が軽くなったような。負の感情が消されるだけじゃなくて、何か次に進むためのモチベーションのトリガー的な役割までも担っていた。その言葉は“誰が”発したのかは全くもって関係なくて、もはやその言葉、すなわち母音と子音と喉を震わせて出てくる音だけで、こんなにも人の心が揺さぶられるのは、一体何なのだろうと不思議におもう。

 

言葉というものに、こんなにも敏感になったのはいつからだろう。先天的か後天的なのかも分からないまま年を重ねながら、耳にしてきた数々の言葉たちに良い意味でも悪い意味でも翻弄されてきた。自分が思っている以上に、自分に向けられた言葉は意外と覚えているもので、ふとした瞬間に何気なく思い出すことがある。これは、いじめた側の人間はあまり覚えていないけれど、いじめられた人間はその経験を長い間覚えていたりするよね、という話と似ている。もしかしたら、自分に向けられた言葉も同じように、脳にインプットされて記憶として処理されるかたちはどこか類似しているのかもしれない。現に誹謗中傷という言葉があるように、人は他人から受けた言葉を、心のどこかでは攻撃的、とまではいかないけれど、そういう心の負の感情のトリガーを引くレバー的な役割を担っていると思ってしまっているきらいがある気がする。

 

これまで二十数年生きてきて、自分が耳にしてきた言葉は、圧倒的に嬉しい類のものが多いのだけれど、やはりネガティブなワードが持つパワーは頑丈で強靭で猛烈で、グサグサと心の中を平気で土足で入ってくるような、ポジティブなワードとは比べ物にならないくらい鋭利なものとして映る。おそらく大半の人は、どのような強敵が立ちはだかってきたとしても、“気にしない”の精神でうまく世の中を生きているのだとおもう。というかそれが出来て当たり前という暗黙な了解的なものが、生きる上での土台として、逃げ場のなさと同時に、もうそこにただただ存在している。

 

きわめて繊細でHSP的な気質は、自分でも困っちゃうくらいにどうしようもなくて、何を言われても平気な顔をしている人を見るたびに尊敬の念が禁じ得ない。持ち前の心の弱さを発揮するたびに、信用や信頼という言葉にも嫌われたりして、なんだかもうこの先うまく生きることはできないんだろうなって、そんなことを考えてしまって憂鬱な気分になる。「慣れ」という言葉があるけれど、こういう落ち込んだり気分が沈んだりするネガティブな感情に「慣れ」という概念は存在しないような気がする。何度だって落ち込むし、同時に全く一緒の感情になるなんていうのは幻だ。何だかよくわからない複雑な感情が入り混じって、ニュートンアインシュタインも解けない方程式がずっとそこにあって、解けずに解かずにそれにずっと苛まれているような。

 

というか他人の発した何気ない言葉で、いちいち気分を変えられるなんてめちゃくちゃコスパが悪い。ポケモンの技でたとえると、相手の打ってきたみずてっぽうで、大ダメージを食らってしまっている状態だ。相手からしてみれば「僕、別にハイドロポンプ打ってませんけど?」といった感じだろう。僕からしてみれば、みずてっぽうだろうがハイドロポンプだろうが、相手からの攻撃ということに変わりはないのだ。というか、もうとっくに水で溺れている。

 

気づいたら7月も中旬に差し掛かって、まだまだ梅雨で、空はまだ曇り模様、まるで自分の心模様を投影しているかのような気がしますね。なんだか、こういうのをすべて笑い話にして楽しめるようになったら、もっと楽に生きられるのかなあと思ったり。正攻法があって、それに沿った行動をしてみても、すべてが上手くいくことなんてなくて、だから生きていくことに難しさや楽しさを感じるような。そんな気が。する。何の話ですか、これ。 

流しそうめんの正体を僕らは知ってる

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某バンドの某曲にこんな歌詞がある。

 

流しそうめんの正体を僕らは知ってる

 

流しそうめんといえば、夏の風物詩のひとつである。竹を半分に切ったものを並べて、そこに水とそうめんを流して楽しむ夏の大々的なイベントだ。

 

しかし、私たちは「流しそうめん」と当たり前のように言うけれど、果たしてその言葉の本質をきちんと捉えて使っているのだろうか?こういう命題は、ある種の常識的な物事に対するアンチテーゼ的なものを含んでいるともいえる。

 

そもそもこの「流しそうめん」という言葉は、「折りたたむ」+「傘」=「折りたたみ傘」、「話す」+「声」=「話し声」といったような、複合名詞の一種であり、「動詞」+「名詞」の組み合わせによって作られている。すなわち「流す」+「そうめん」=「流しそうめん」である。

 

流しそうめん」の言葉の成り立ちを理解したところで、物事の本質を理解したとは言い難いので、今回は歌詞と一緒にこの「流しそうめん」について深く堀っていこう。

 

歌詞の中では、流れるそうめんに対してこのように歌っている。

 

ゴールなんてわからないままで いつまで どこまで

 

そう、はたからみれば楽しく流れているそうめんも、行きつく先はどこなのか分からないのだ。あるがままに、なすがままに、私たち人間によって、竹の上に水と一緒に放り込まれて、ただただ流されているに過ぎないのだ。

 

その姿はまさに、自分の意志ではどうすることもできないまま、世間やこうあるべきだという価値観に流されている者たち、見方を変えれば社会の縮図ともいえるべき事態がそこにあるということに気づかされる。もはやこれは、“流し”そうめんではない、“流され”そうめんなのだ。

 

もし僕がそうめんなら、どう抗うのだろう?

 

そうめんにとって水は、人間でいう空気だ。

 

もしかしたら、一緒に流されている水は、そうめんにとってみれば、かけがえのないパートナーなのかもしれない。当たり前過ぎて、そこにある幸せに気付かないのと似た類のやつだ。

 

こう考えると「抗ってみよう」という考え方自体が、もしかしたら間違っているのかもしれない。

 

そしてサビではこう歌われる

 

時間と距離を飛び越えて 君のその手からここまで来た

 

あんなに流されることが辛かったけれど、誰かの手によってそうめんが掬われて、めんつゆと一緒に絡めて食べてもらうことができた。そうめんにとっては本望であろう。

 

歌詞の中の「君」とは、そうめんのパートナーである「水」のことかもしれないし、そうめんを掬っている私たち人間のことかもしれない。

 

私たち人間によって、そうめんは流されていると思っていたけれど、ふと人間に掬われて救われたら、何だか嬉しい気持ちになる。嫌いだけど、好き。好きだけど、嫌い。こんな相反する2つの感情がうまく折り重なったような、そんなことを想像させる歌詞である。

 

もしそうめんに心があると思うと、一本残らず、掬って食べてあげたいと心から思う。キンキンに冷えたそうめんとめんつゆを絡ませて口の中をヒンヤリパレードにしたい。

 

ひとりにせずに掬えるように 旅立った唄 間に合うように

 

2番のサビでもこう歌われている。ここまで来るともう本当に流しそうめんのことを歌っているのかもしれない、とさえ思ってくる。

 

「旅立った唄」―そう、これは紛れもなくガッツリと、口の中に放り込んだそうめんのことだ。リズムをかき鳴らすそうめん。思い出を描くそうめん。記憶に刻むそうめん。なんて美しんだろう。そうめん。

 

そして楽曲の最後にはこう締めくくられている

 

飛んでいけ 君の空まで 生まれた全ての力で輝け

 

「生まれた全ての力」―そう、これはそうめんが私たちの元に届くまでの過程のこと。それはつまり「生きる」ということ。小麦粉、塩、水から、茹でたり、もしくは炒めたり焼いたりすることもあるだろう。そうめんがそうめんとして一番輝ける瞬間を見れたのなら、それはもう幸せそのものだ。もしかしたら、流しそうめんの瞬間が的確にそれを体現しているのかもしれない。

 

もう竹の先に設置してある桶の中に、そうめんは一本たりとも流さない。

 

だってそれはそうめんの本望じゃないから。

 

ゴールが分からないまま迷子にならないように、私たちでちゃんとそうめんを掬ってあげることができる。

 

何だか少しだけ流しそうめんの正体が分かったような気がします。

 

透明な白で包まれたキラキラと輝いたそうめんを食べよう。

 

夏。