言葉と感情とインターネットと純粋な心
何気ない日常が、無数の言葉で埋め尽くされて、感情が燻られる。頭の中は、毎日たくさんの単語たちで埋め尽くされて、そこから適切なものを自分で選んで、私たちは人とコミュニケーションを行う。言葉は相手を喜ばせたり、時によっては傷つけたりする。自分では相手を傷つけていないつもりでも、相手は心を痛めている時だってある。今やインターネットが盛んになってきて、人と顔を合わせて会話をする機会が少なくなっている。多くの人たちは、様々なSNSを駆使して、感情が媒介されない単語の羅列だけで、人とコミュニケーションを図ろうとする。普通、人と接する時は、相手の表情、声の大きさやトーン、ボディーランゲージといった身振り手振りなどで、相手の感情が浮き彫りになって、意識しなくても理解できる。でも、SNS上だと、相手の顔は見えない。だから、文章の末尾に顔文字や絵文字、スタンプなどを使って、単語の羅列に込もっていない感情を精一杯表現しようとする。でも、やっぱり、相手の頭の中の思考や感情なんてものは分からない。僕は、相手の過去を生きていないから、一生かかっても理解することはおそらく出来ないと思う。当たり前のように訪れる誕生日を迎えて、1年という重みが本人に圧し掛かってくる。そんな連続の人生を、あなたの過去を、すべて網羅できない。感情の乗った言葉一言で、辛かった過去の悲しみや寂しさを紛らわして、涙が地面に一滴も零れることなく拭えるとしたら、きっとそれは魔法だ。でも、人が人に伝えることの出来る言葉には限界があって、相手の心が少しでも和らぐような一言を、頭の中を駆け巡っては試行錯誤して、それを日々探し求めている。言葉だけで表現するって、簡単なようで難しい。頭の中に刹那的に出てきた気持ちや感情を、言葉にすること、言語化すること、これは人間が人間であるための証明次項なんだけれど、年齢を重ねるにつれて、難しくなっていく。だから、まだ若い時に、こうやって言語化しておく、形として残しておくことって、重要なことなんじゃないかなって、たまに思う。過去の自分と対話する時が来たら、また読み返せばいい。言葉は、生きていると、経験や知識、偏見や邪見で上書き保存されるから、こうして書いている時の自分の頭の中の感情は人生の中で、一番新鮮で古い。でも、もしかしたら、上書きされてしまうのが嫌だから、無意識的に書いているのかも知れない。言葉によって、感情が揺さぶられるのは、怖いけれど面白い。
人が感情を燻られる時ってどんな時だろう。例えば、美しい景色に出会えたとき、感動するライブやパフォーマンスを目の当たりにしたとき、好きな人に「好き」って言われたとき、生きていると、感情が動かされることなんて数えきれないほどある。だってそれ自体が人生だから。人は感情が強く燻られると語彙力が極端に無くなる。巷の女子高生が女子同士の会話で多用する単語で、脳内が埋め尽くされる。俯瞰的に見ればちょっと怖いけれど、それがあるべき姿なのかも知れない。言葉にできない。言語化できない。でも、脳内では必ず何かしらの単語が浮かび上がっていて、それによって私たちは感情が動かされているのだと思う。この気持ちを上手く言葉に表したいけれど、浮かび上がってきた単語はジグザグにスルーされて、感情だけが表面に出て、その結果私たちは、言語化が難しくなるのだと思う。喜怒哀楽の感情が、言葉を飛び越えて、表面に溢れ出てしまう。感情は心を裏切らない。言葉では、いくらでも嘘をつけるけれど、溢れ出る感情に嘘はつけない。だから、この世界で、一番信じられるものは、人が感情を動かされている姿なのかもしれない。だから、私たちは、、日々たくさんの人の感情を動かして幸せになってもらうために、言葉を試行錯誤して選び抜いて、相手に伝えるのだと思う。言葉は人を豊かにして、時には傷つけてしまう。この事実を私たちは知っている。だからとても慎重になる。この先、インターネットが主流になってくると、言葉の取り扱いが今よりももっと難しくなると思う。惑わされないように、自分の心を信じて生きていきたいなぁ。心や感情を失くしたら人間じゃなくなる、僕じゃなくなる。ロボットにならないように、自分の感情にいつまでも素直でありたい。子どもの頃の無垢で純粋で好奇心旺盛だった過去の自分でありたい。病棟のベットで横たわって死を迎えるまでずっと、ずっと。そういう馬鹿正直な心を世間に汚されたくないし、忘れたくないなぁ。
はい、おわり!
ありのままの姿で生きようね。今年も残りわずかだけれど。
なんだこの終わりかた。
ではでは★★★★