Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

忘れないように

 僕は夜中という時間帯が大好きだ。沈黙で埋め尽くされる空と、パソコンのファンの音だけが狭い部屋中を駆け巡る。社会の歯車が悠々としたスピードで動いているから、夜行性の僕にとっては快適で最高すぎる環境なのだ。夜中だけは、自分の感情に素直に正面から向き合える。緩やかに進む社会の歯車とは対照的に、僕の頭の中の感情や考え事は煮えたぎるように活発的に動く。これと言って特に生産的な活動をしているわけではないけれど、頭の中を様々な感情たちがぶつかり合ったりしていく様を、俯瞰的に見たりして、正しい感情だけを取り出しては、そこに浸ることを繰り返している内に朝がやってくる。冬は日が昇るのが遅いから好きだ。なぜなら自分の感情と向き合う時間が増えるから。最近は、何かを見たり考えたりしている時に、パッと無意識的に浮かんだアイデアや、頭の中の言語化できないレベルのモヤモヤをノートにメモすることを心掛けている。というかほとんどこれが習慣になっている気がする。書き記したノートに特別な目的はないけれど、自分の刹那的な感情はシャボン玉のようにすぐ消えてしまって儚いから、ノートにペンを走らせるのだと思っている。だから後でノートを見返すと、何だこれ?って思わざるを得ない言葉がぎっしり詰まっている。でも不思議なことに、書いてある言葉は違えど、ほとんど同じような意味のワードが多い。人と話しているとき、ポロっと無意識に口から発した言葉が本音を表しているように、無意識的に記された言葉たちが、同じ意味を成しているのは、おそらく自分の本心では、こういうことを考えたり思ったりしているんだろうなぁと、気付かせてくれる。自分の感情に素直に向き合うことは簡単なようで難しい。だからこそ、向き合う時間が必要だと思う。もう一人の自分との駆け引き。自分ももう一人の自分も、お互いに分からないまま、何かをずっと探している。BUMPの「時空かくれんぼ」的な思考と言っても良い。おそらくずっと死ぬまで悩み事は絶えないと思うけれど、自分の感情と向き合うことを忘れたら、そこで全てが溶けてしまうような気がする。もう無理なのかなぁと悲観的に思っても、細く固く結ばれた一本の糸があれば、それだけで生きていけるよね。僕はそう信じてる。こんなことを夜中の4時に書いてます。もしかしたら頭おかしいかも知れないですね。でもこういう時間がたまらなく好きです。疑問と自問自答が募っていく毎日だけれど、自分の湧き出る感情から、何か一つでも汲み取って生きる糧にしていければ良いと思う。どんなに未熟でも不器用でも、一つだけ信念や美学があればどこにでも行ける気がする。ありのままの姿で。ずっと。

好きな人には好きって言えるように

 今すれ違った人は、どんなことを思っていて、どんな毎日を生きているのだろう。電車の中で隣に座っている人、目の前に座っている人は、どんなことを感じていいて、どんな人生を生きているのだろう。こんな、考えていてもどうしようもないことをよく考えてしまう癖がある。答えのない物思いにふけながら、最終的には、自分に与えられた人生というものに、自分は正直で素直に生きているのかなぁとか考える。たまに、世間は冷たくて残酷だ、社会は甘くない、厳しい世界だなんて、今までの人生を生きる途中で幾度も耳にした、根拠のない誰かの言葉をふとした瞬間に思い返しては、少し目の前が滲んだりする。人は、世間のことを考える時や述べる時、少し離れて一歩引いた俯瞰的な目線で見たり発言したりする。また、時には、自分はこの世界の中心で、自分が軸となって世界は動いているというような、ある種の中二病的思考をもたらすときもあったりする。心のどこかで、自分は他の人より秀でていて、自分は認められた存在であるというような、優越感に浸るときもあったりする。おそらくこういう類の感情は、人間誰しも持っているものだと思う。それは人間に与えられた特権なんだけれど、ときには、他人を傷つけてしまったり、自分までも無意識に傷付けてしまっていることさえあったりする。義務教育とその延長の中で、たくさんの人たちに叩きつけられてきた、物事に対する穿った見方や考え方が、自分の考えの中にウイルスのように侵入してきて、本当の自分を奪われそうになる時がある。こんな考えを持ってしまっている自分が嫌だなぁって思いを心のどこかに馳せながらも、軌道修正できないまま、流されていく。そんな日々の繰り返しが人生なのかなぁって無意識に納得してしまっている自分がいる。そもそも本当の自分って何なんだろう?個性って何なんだろう?一生かかっても答えは出てこない気がする。だって、自分らしさや個性というものは、自ら見出そうとして見出すことのできるものじゃないと思うから。自然と、一種の現象のように、その人から滲み出てくるものだと思うから。生活のなかの、ふとした溜め息のような、友達を遊んでいるときの、ふとした笑顔のような、大切な人が苦しんでいるときに、ふと手を差し伸べられるような、こういう類のものだと思う。こんな一瞬一瞬が積み重なって、自分らしさや個性が滲み出てくるのかなぁとか思ったりする。でも、どうしても、その日の気分や状況で、いつもとは違う自分に変わったりして、そんな自分が嫌になったりして、他人のことを思いやれていない自分が少し惨めに感じるときもある。僕は、友達と遊ぶとき、今友達は、自分と居て楽しいと感じているのかなぁとか、お別れしたあとも、友達にあんな発言をしたけれども、心傷ついていないかなぁとか、友達が発したあの言葉の真意は何なんだろうとか、色々考えてしまう癖がある。こんなこと考えてもしょうがないと分かっていながらも、なぜか考えてしまっている自分がそこにいる。こんなに考え込む自分をたまに、めんどくさいなぁとも思う。でも考えることは、決して無駄じゃないって信じている。どこかできっと役に立つときが来るって信じている、そして、こんなにも考えている自分のことを、自分で、これが自分らしさなのかなぁと、思ったりもする。その反面、こんなことはみんながみんな考えていることで、ごく当たり前のことだから、自分は没個性なのかなぁとも考えたりもする。だから、冒頭でも述べたけれど、こういう考えが巡り巡って、街行く人々の頭の中を色々妄想したりしてしまっているのかなぁって思う。答えのないことを空想することは楽しい。おそらく一生死ぬまで、考え続けるんだろう。考えることを止めたら、人間じゃなくなる気がする。ロボットになってしまう。でも、そんな人も一種の個性なのかなぁとも思う。何が正しくて、何が間違いかなんて、人生にはそんな概念はないけれど、それでも、やっぱり、自分の心には一生素直でいたい。小学校の頃はなんて素直だったんだろうって、今でもよく思い返したりする。探究心や好奇心を忘れないように、楽しいときは楽しいって、苦しいときは苦しいって、好きな人には好きって、魂から素直に言えるように。

 

 

今年も残り1カ月。早いなぁ。

 

 

ではでは★★★★

過去に戻るという感覚

夢を見ていたあの頃に比べたら、叶えるための努力や行動なんて何も残っていなかった。すべて消え失せてしまった。瞬く間に消えゆく流れ星のように、それは一瞬で僕の心から、生きる術さえも奪っていった。僕には何ができるんだろう。何が残されているんだろう。自問自答も出来ないくらい、もう一人の僕は返事さえしてくれない。人は悲しさを乗り越えた時、初めて強くなれるっていうけれど、やっぱり心のどこかには寂しさや悲しさはずっと残っていて、でも逆にそれがあるから、少しは胸張って生きていこうって思える。

 

僕には、幼稚園からずっと幼馴染の友達が何人かいる。同じ場所で、同じ月日に生まれただけの人たちが周りにいて、気が付いたらとても仲良くなっていて、小中高大学では、それぞれがぞれぞれの道に進んで、年齢を重ねるにつれて会う回数も徐々に減っていったけれど、やはり昔からずっと同じ時間を過ごしてきた友達だからか、一緒にいるときは、懐かしい記憶や思い出が蘇ってきて、小学校・中学校の頃はあんなことあったねなんて、笑いあったりして、落ち着いて心から楽しいと思える時間を過ごせた気がする。一緒に辛いことも乗り越えてきたからこそ、分かち合えるものがあった。そして、魔法の時間は瞬く間に過ぎ去り、社会人となり、まだ見ぬ世界へと羽ばたくことになる。それぞれが違う道で、見えない何かと戦いながら、40年の労働生活を強いられることになる。学校とは違って、自分から発言や行動しなければ誰も助けてくれない。そんな残酷な世界で、時には自分を犠牲にして、生きていかないといけない。社会人生活は僕にとって、苦でしかなかった。内定が出た瞬間の喜びとは裏腹に、今まで経験したことのない何かが重く僕の心の中に圧し掛かっていた。敷かれたレールから外れたら人生終了といった、生きてきた中で、何度か目に耳にした穿った考え方が、いつのまにか脳裏に焼き付いていて離れない。個性なんて認めてくれない。我慢することは美徳。こんな日本社会の現実に、少しずつ違和感を感じ始めていた。

 

人格否定と過労自殺と叶わない夢とお前なんて社会に必要ないよという幻想。もし僕が死んだら、その瞬間に世界は終わる。悲しむのは家族と友人くらいなのかな。おそらくニュースにもされない。ただ一人の命が無くなった。それだけが、厚生労働省の資料の1ページに、数字としてカウントされるだけだ。社会で働く日数が増えていくにつれて、輝いていた青春の日々は、跡形もなくバラバラに切り刻まれていった。もう二度とあの頃は来ない。もう二度とあの頃の自分には戻れないのかなって思うだけで、生きている実感がしなくなる。このまま家と会社の往復を繰り返して、病棟のベットで誰にも見守られることなく死んでいくのなら、もう二度とこんな残虐な世界を見れないように、颯爽と自分から命を絶った方が手っ取り早いんじゃないかなって思ったりもする。友達も同じような境遇に陥っている。「苦しい」「つらい」という短い言葉のなかには、途轍もないくらい膨大な苛立ちや妬みや哀しみを孕んでいると思う。もしかしたら、僕の使う「苦しい」という言葉は、他の人にしてみれば、それは苦しくないのかもしれない。でも、苦しみに大小の概念なんてなくて、本人が苦しいと思えばそれは本当に苦しいんだということ。僕は君じゃないから、苦しさを全部汲み取ってあげることは出来ない。けれど痛みを分かち合えることは出来る。だってずっと幼稚園から今の今まで生きて来れたから。ずっと途切れないように紡いで来れたから。ずっと友達でいられたから。

 

社会人になってから、よりたくさんの人たちと出会って話すようになった気がする。本当に感謝しかない。色々な人と話しをしていくなかで気付いたことがある。それは、自分らしさや個性を見出しているときが、一番楽しいということ。楽しんでいる自分がそこに居るということ。結局人間は、自己顕示欲や表現欲が強い生き物で、自分を認めてもらえたとき、自分を表現することが出来たときが、一番心から素直に楽しいって思える気がする。それはおそらく、自分には存在価値がある、つまり生きている価値があるって思えるからだと思う。人と話すのって楽しい。そう思えた。思わせてもらえた。自分を表現すること、さらけ出すことは、とても勇気のいることだけれど、そんな勇気も忘れるくらい、自分をさらけ出した後の達成感や気持ちよさは何にも代えがたいものがあると思う。これは、学生時代に何度も経験している。だから、今ではあの頃に戻りたいって強く思う。逆の意味で遠くへ行きたい。過去を振り返らずに未来を見ろって、大人は言うけれど、過去を振り返るのも大切だ。僕は戻っても良いと思う。今が間違っていると思うなら。

 

最後に、僕は、「俺は昔苦労したから、お前も苦労しろ。」「まだそんなこと言ってるの?夢なんて見てないで現実見ろよ。」「その年で、そんなことやっても無駄だよ、諦めな。」なんて、好奇心に水を差してくるような大人は、あまり好きじゃない。いつだって意見は肯定的でありたい。そして、子どもの頃のような素直で純粋な探究心や好奇心を失わずに生きていきたい。汚れてしまわないように。汚れてもまた立ち直れるように。

 

ではでは★★★★

性欲と愛情について

 人の、欲望のストッパーが外れた話を聞いていると、どこまでも疚しくて滑稽で自然体で、それでいてちょっと面白い。人には誰しも"欲"があって、その欲を満たすために、色んな行動をしたりする。そして、その欲を満たそうと行動している一瞬一瞬が、生きていることの確かな証なんだと思う。人が欲望に固執して、満たそうと動いている姿を見ると、おそらく人間らしさっていうのを目の当たりにすることが出来るんだろうな。だって、見ていなくても、そういう話を他人から聞くだけで、その状況がリアルに脳内で再生されて、他人のドロドロに塗れた欲望に浸ることができるから。それはたぶん、心の奥底に眠っている、自分も知らない"欲"が、動き始めている証拠なんだろうな。他人から触発されて、初めて自分の成したいことやりたいことが明確になることもある。触発されて、"成したい"って気持ちが表に出るけれど、それは刹那的な時間で過ぎ去って、また心の内側に戻っていく。それの繰り返し。だから、欲を満たすためには、自分という心の扉を開けてやらないといけない。この扉は他人に開けてもらうんじゃなくて、自分で開けなきゃいけない。だって扉のカギは自分しか知らないから。カギはどこだっけ、って優柔不断に探し彷徨っている間に、また触発されるから、また自分を表に出しづらくなる。誰も扉をこじ開けて、引きずり出してくれないから、後は自分との戦いになる。欲望に塗れて生きることは、簡単だけど簡単じゃない。簡単じゃないから、そこに人間らしさだったり、その人の生き様や滑稽さが相見える

 人には様々な欲が宿ってるんだけど、ここではその中のひとつ"性欲"について取り上げる。性欲は人間誰しもが持っている欲求のひとつで、性的な満足を求める本能とも言えるべきものである。この性欲ってやつは厄介で、時には世間を騒がせるようなニュースに発展したり、時には人を傷つけたりしてしまう。特に男性の性欲は女性よりも高い。テストステロンという男性ホルモンが女性のよりも10~20倍も多いらしく、男性の性行動が過激になるのはこのためであると言われている。確かに男性が絡む性犯罪の事件などをよく耳にするのは、なんとなく分かる気がする。個人の性欲の強さには概念がない。誰でもこの欲求は持っている。当たり前すぎて、なぜか現代社会ではタブー的な位置づけとして葬られてる気がする。男性の性欲の強さは、街中で見るキャバクラや風俗、男性向けに作成されたアダルトビデオの多さなどによって証明されている気がする。こんなふうに男性の性欲はとどまるところを知らない。女性が男性の行動について理解することが難しいのも分かる。そして、逆も然り。男性も女性の心理を理解することは難しい。男性は女性を好きになるとき、それはもしかしたらエッチしたいという感情をオブラートに包み込んで、好きというに二文字で表現しているのかも知れない。仮にそうだとしたら、本当の愛情なんて分からない。人を好きになるって何なんだろう。恋愛経験なんてほとんど皆無な僕からしたら、"好き"の裏側には"エッチしたい"という欲が絶対あると思う。むしろ、エッチしたいから好きになっているのかもしれない。そうだとしたら、ちょっと怖い。性欲だけが一人歩きしないように、デートではそのヤりたいって気持ちを抑えて、徐々にスキンシップを取って、3回目くらいで告白すると良い。みたいな恋愛関連の記事がネット上にたくさんばら撒かれている。こういう記事を見るたび、男性は女性に対する下心を悟られないように行動しなければならない、というような、自由を束縛されたような、隔離されたような感覚におちいる。客観的に書いているけれど、実際に異性といると、男性の頭の中は、エロい妄想が繰り広げられているのは事実だ。その女性に対する疚しい気持ちは0%じゃないはずだ。エッチしたい気持ちがある=愛情がある、という方程式は何となく違う。ここからは個人的な憶測でしかないけれど、本当の愛情はエッチしたあとに、ふと無意識に心に浮かんでくるある種の現象のようなものだと思う。エッチした後だから、その時点で性欲は無い。だけれど、そんな相手がなんとなく好き。好きになっている自分がいる。こんなふうに意識していなくても、心の中で自分でも知らないうちに気付かされる。こんな瞬間が訪れるんだと思う。でも、こんな刹那的な瞬間に立ち会えることってすごく難しい。男性の性欲なんて、そそり立ったものから精子を出せばそれだけで快楽を得られる。そんな単純なもの。だけど、コントロール出来ない理由を、これが男性の本能だから、って言葉で片付けるのはおかしいと思し、許されないものだと思う。性欲と愛情の区別が出来るとき、その時が多分生きてることを強く実感して、幸せを感じるんだと思う。

 ここまで、性欲という欲望にフォーカスして、恋愛や愛情について書いてきたけれど、ちょっと気味が悪いね。でもタブー視されていることだからこそ、真剣に向き合いたい。小中学校の性教育では、男女の身体の違いや、避妊の仕方とかを教えるけれど、もっと男女の恋愛に対する価値観の違いだったり、男女の性欲の違いとか、そういうことを教えても良いと思う。でも子どもだったらまだ、そういう感情って分からないんだろうな。何が正解か分からないけれど、自分の持っている欲望には素直でありたい。そして、相手の欲望にも寛容でありたい。おそらくそれが一番幸せに近づける気がする。

ではでは!☆☆☆☆

言葉と感情とインターネットと純粋な心

 何気ない日常が、無数の言葉で埋め尽くされて、感情が燻られる。頭の中は、毎日たくさんの単語たちで埋め尽くされて、そこから適切なものを自分で選んで、私たちは人とコミュニケーションを行う。言葉は相手を喜ばせたり、時によっては傷つけたりする。自分では相手を傷つけていないつもりでも、相手は心を痛めている時だってある。今やインターネットが盛んになってきて、人と顔を合わせて会話をする機会が少なくなっている。多くの人たちは、様々なSNSを駆使して、感情が媒介されない単語の羅列だけで、人とコミュニケーションを図ろうとする。普通、人と接する時は、相手の表情、声の大きさやトーン、ボディーランゲージといった身振り手振りなどで、相手の感情が浮き彫りになって、意識しなくても理解できる。でも、SNS上だと、相手の顔は見えない。だから、文章の末尾に顔文字や絵文字、スタンプなどを使って、単語の羅列に込もっていない感情を精一杯表現しようとする。でも、やっぱり、相手の頭の中の思考や感情なんてものは分からない。僕は、相手の過去を生きていないから、一生かかっても理解することはおそらく出来ないと思う。当たり前のように訪れる誕生日を迎えて、1年という重みが本人に圧し掛かってくる。そんな連続の人生を、あなたの過去を、すべて網羅できない。感情の乗った言葉一言で、辛かった過去の悲しみや寂しさを紛らわして、涙が地面に一滴も零れることなく拭えるとしたら、きっとそれは魔法だ。でも、人が人に伝えることの出来る言葉には限界があって、相手の心が少しでも和らぐような一言を、頭の中を駆け巡っては試行錯誤して、それを日々探し求めている。言葉だけで表現するって、簡単なようで難しい。頭の中に刹那的に出てきた気持ちや感情を、言葉にすること、言語化すること、これは人間が人間であるための証明次項なんだけれど、年齢を重ねるにつれて、難しくなっていく。だから、まだ若い時に、こうやって言語化しておく、形として残しておくことって、重要なことなんじゃないかなって、たまに思う。過去の自分と対話する時が来たら、また読み返せばいい。言葉は、生きていると、経験や知識、偏見や邪見で上書き保存されるから、こうして書いている時の自分の頭の中の感情は人生の中で、一番新鮮で古い。でも、もしかしたら、上書きされてしまうのが嫌だから、無意識的に書いているのかも知れない。言葉によって、感情が揺さぶられるのは、怖いけれど面白い。

 

 

人が感情を燻られる時ってどんな時だろう。例えば、美しい景色に出会えたとき、感動するライブやパフォーマンスを目の当たりにしたとき、好きな人に「好き」って言われたとき、生きていると、感情が動かされることなんて数えきれないほどある。だってそれ自体が人生だから。人は感情が強く燻られると語彙力が極端に無くなる。巷の女子高生が女子同士の会話で多用する単語で、脳内が埋め尽くされる。俯瞰的に見ればちょっと怖いけれど、それがあるべき姿なのかも知れない。言葉にできない。言語化できない。でも、脳内では必ず何かしらの単語が浮かび上がっていて、それによって私たちは感情が動かされているのだと思う。この気持ちを上手く言葉に表したいけれど、浮かび上がってきた単語はジグザグにスルーされて、感情だけが表面に出て、その結果私たちは、言語化が難しくなるのだと思う。喜怒哀楽の感情が、言葉を飛び越えて、表面に溢れ出てしまう。感情は心を裏切らない。言葉では、いくらでも嘘をつけるけれど、溢れ出る感情に嘘はつけない。だから、この世界で、一番信じられるものは、人が感情を動かされている姿なのかもしれない。だから、私たちは、、日々たくさんの人の感情を動かして幸せになってもらうために、言葉を試行錯誤して選び抜いて、相手に伝えるのだと思う。言葉は人を豊かにして、時には傷つけてしまう。この事実を私たちは知っている。だからとても慎重になる。この先、インターネットが主流になってくると、言葉の取り扱いが今よりももっと難しくなると思う。惑わされないように、自分の心を信じて生きていきたいなぁ。心や感情を失くしたら人間じゃなくなる、僕じゃなくなる。ロボットにならないように、自分の感情にいつまでも素直でありたい。子どもの頃の無垢で純粋で好奇心旺盛だった過去の自分でありたい。病棟のベットで横たわって死を迎えるまでずっと、ずっと。そういう馬鹿正直な心を世間に汚されたくないし、忘れたくないなぁ。

 

はい、おわり!

 

ありのままの姿で生きようね。今年も残りわずかだけれど。

 

なんだこの終わりかた。

 

ではでは★★★★