Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

過去に戻るという感覚

夢を見ていたあの頃に比べたら、叶えるための努力や行動なんて何も残っていなかった。すべて消え失せてしまった。瞬く間に消えゆく流れ星のように、それは一瞬で僕の心から、生きる術さえも奪っていった。僕には何ができるんだろう。何が残されているんだろう。自問自答も出来ないくらい、もう一人の僕は返事さえしてくれない。人は悲しさを乗り越えた時、初めて強くなれるっていうけれど、やっぱり心のどこかには寂しさや悲しさはずっと残っていて、でも逆にそれがあるから、少しは胸張って生きていこうって思える。

 

僕には、幼稚園からずっと幼馴染の友達が何人かいる。同じ場所で、同じ月日に生まれただけの人たちが周りにいて、気が付いたらとても仲良くなっていて、小中高大学では、それぞれがぞれぞれの道に進んで、年齢を重ねるにつれて会う回数も徐々に減っていったけれど、やはり昔からずっと同じ時間を過ごしてきた友達だからか、一緒にいるときは、懐かしい記憶や思い出が蘇ってきて、小学校・中学校の頃はあんなことあったねなんて、笑いあったりして、落ち着いて心から楽しいと思える時間を過ごせた気がする。一緒に辛いことも乗り越えてきたからこそ、分かち合えるものがあった。そして、魔法の時間は瞬く間に過ぎ去り、社会人となり、まだ見ぬ世界へと羽ばたくことになる。それぞれが違う道で、見えない何かと戦いながら、40年の労働生活を強いられることになる。学校とは違って、自分から発言や行動しなければ誰も助けてくれない。そんな残酷な世界で、時には自分を犠牲にして、生きていかないといけない。社会人生活は僕にとって、苦でしかなかった。内定が出た瞬間の喜びとは裏腹に、今まで経験したことのない何かが重く僕の心の中に圧し掛かっていた。敷かれたレールから外れたら人生終了といった、生きてきた中で、何度か目に耳にした穿った考え方が、いつのまにか脳裏に焼き付いていて離れない。個性なんて認めてくれない。我慢することは美徳。こんな日本社会の現実に、少しずつ違和感を感じ始めていた。

 

人格否定と過労自殺と叶わない夢とお前なんて社会に必要ないよという幻想。もし僕が死んだら、その瞬間に世界は終わる。悲しむのは家族と友人くらいなのかな。おそらくニュースにもされない。ただ一人の命が無くなった。それだけが、厚生労働省の資料の1ページに、数字としてカウントされるだけだ。社会で働く日数が増えていくにつれて、輝いていた青春の日々は、跡形もなくバラバラに切り刻まれていった。もう二度とあの頃は来ない。もう二度とあの頃の自分には戻れないのかなって思うだけで、生きている実感がしなくなる。このまま家と会社の往復を繰り返して、病棟のベットで誰にも見守られることなく死んでいくのなら、もう二度とこんな残虐な世界を見れないように、颯爽と自分から命を絶った方が手っ取り早いんじゃないかなって思ったりもする。友達も同じような境遇に陥っている。「苦しい」「つらい」という短い言葉のなかには、途轍もないくらい膨大な苛立ちや妬みや哀しみを孕んでいると思う。もしかしたら、僕の使う「苦しい」という言葉は、他の人にしてみれば、それは苦しくないのかもしれない。でも、苦しみに大小の概念なんてなくて、本人が苦しいと思えばそれは本当に苦しいんだということ。僕は君じゃないから、苦しさを全部汲み取ってあげることは出来ない。けれど痛みを分かち合えることは出来る。だってずっと幼稚園から今の今まで生きて来れたから。ずっと途切れないように紡いで来れたから。ずっと友達でいられたから。

 

社会人になってから、よりたくさんの人たちと出会って話すようになった気がする。本当に感謝しかない。色々な人と話しをしていくなかで気付いたことがある。それは、自分らしさや個性を見出しているときが、一番楽しいということ。楽しんでいる自分がそこに居るということ。結局人間は、自己顕示欲や表現欲が強い生き物で、自分を認めてもらえたとき、自分を表現することが出来たときが、一番心から素直に楽しいって思える気がする。それはおそらく、自分には存在価値がある、つまり生きている価値があるって思えるからだと思う。人と話すのって楽しい。そう思えた。思わせてもらえた。自分を表現すること、さらけ出すことは、とても勇気のいることだけれど、そんな勇気も忘れるくらい、自分をさらけ出した後の達成感や気持ちよさは何にも代えがたいものがあると思う。これは、学生時代に何度も経験している。だから、今ではあの頃に戻りたいって強く思う。逆の意味で遠くへ行きたい。過去を振り返らずに未来を見ろって、大人は言うけれど、過去を振り返るのも大切だ。僕は戻っても良いと思う。今が間違っていると思うなら。

 

最後に、僕は、「俺は昔苦労したから、お前も苦労しろ。」「まだそんなこと言ってるの?夢なんて見てないで現実見ろよ。」「その年で、そんなことやっても無駄だよ、諦めな。」なんて、好奇心に水を差してくるような大人は、あまり好きじゃない。いつだって意見は肯定的でありたい。そして、子どもの頃のような素直で純粋な探究心や好奇心を失わずに生きていきたい。汚れてしまわないように。汚れてもまた立ち直れるように。

 

ではでは★★★★

性欲と愛情について

 人の、欲望のストッパーが外れた話を聞いていると、どこまでも疚しくて滑稽で自然体で、それでいてちょっと面白い。人には誰しも"欲"があって、その欲を満たすために、色んな行動をしたりする。そして、その欲を満たそうと行動している一瞬一瞬が、生きていることの確かな証なんだと思う。人が欲望に固執して、満たそうと動いている姿を見ると、おそらく人間らしさっていうのを目の当たりにすることが出来るんだろうな。だって、見ていなくても、そういう話を他人から聞くだけで、その状況がリアルに脳内で再生されて、他人のドロドロに塗れた欲望に浸ることができるから。それはたぶん、心の奥底に眠っている、自分も知らない"欲"が、動き始めている証拠なんだろうな。他人から触発されて、初めて自分の成したいことやりたいことが明確になることもある。触発されて、"成したい"って気持ちが表に出るけれど、それは刹那的な時間で過ぎ去って、また心の内側に戻っていく。それの繰り返し。だから、欲を満たすためには、自分という心の扉を開けてやらないといけない。この扉は他人に開けてもらうんじゃなくて、自分で開けなきゃいけない。だって扉のカギは自分しか知らないから。カギはどこだっけ、って優柔不断に探し彷徨っている間に、また触発されるから、また自分を表に出しづらくなる。誰も扉をこじ開けて、引きずり出してくれないから、後は自分との戦いになる。欲望に塗れて生きることは、簡単だけど簡単じゃない。簡単じゃないから、そこに人間らしさだったり、その人の生き様や滑稽さが相見える

 人には様々な欲が宿ってるんだけど、ここではその中のひとつ"性欲"について取り上げる。性欲は人間誰しもが持っている欲求のひとつで、性的な満足を求める本能とも言えるべきものである。この性欲ってやつは厄介で、時には世間を騒がせるようなニュースに発展したり、時には人を傷つけたりしてしまう。特に男性の性欲は女性よりも高い。テストステロンという男性ホルモンが女性のよりも10~20倍も多いらしく、男性の性行動が過激になるのはこのためであると言われている。確かに男性が絡む性犯罪の事件などをよく耳にするのは、なんとなく分かる気がする。個人の性欲の強さには概念がない。誰でもこの欲求は持っている。当たり前すぎて、なぜか現代社会ではタブー的な位置づけとして葬られてる気がする。男性の性欲の強さは、街中で見るキャバクラや風俗、男性向けに作成されたアダルトビデオの多さなどによって証明されている気がする。こんなふうに男性の性欲はとどまるところを知らない。女性が男性の行動について理解することが難しいのも分かる。そして、逆も然り。男性も女性の心理を理解することは難しい。男性は女性を好きになるとき、それはもしかしたらエッチしたいという感情をオブラートに包み込んで、好きというに二文字で表現しているのかも知れない。仮にそうだとしたら、本当の愛情なんて分からない。人を好きになるって何なんだろう。恋愛経験なんてほとんど皆無な僕からしたら、"好き"の裏側には"エッチしたい"という欲が絶対あると思う。むしろ、エッチしたいから好きになっているのかもしれない。そうだとしたら、ちょっと怖い。性欲だけが一人歩きしないように、デートではそのヤりたいって気持ちを抑えて、徐々にスキンシップを取って、3回目くらいで告白すると良い。みたいな恋愛関連の記事がネット上にたくさんばら撒かれている。こういう記事を見るたび、男性は女性に対する下心を悟られないように行動しなければならない、というような、自由を束縛されたような、隔離されたような感覚におちいる。客観的に書いているけれど、実際に異性といると、男性の頭の中は、エロい妄想が繰り広げられているのは事実だ。その女性に対する疚しい気持ちは0%じゃないはずだ。エッチしたい気持ちがある=愛情がある、という方程式は何となく違う。ここからは個人的な憶測でしかないけれど、本当の愛情はエッチしたあとに、ふと無意識に心に浮かんでくるある種の現象のようなものだと思う。エッチした後だから、その時点で性欲は無い。だけれど、そんな相手がなんとなく好き。好きになっている自分がいる。こんなふうに意識していなくても、心の中で自分でも知らないうちに気付かされる。こんな瞬間が訪れるんだと思う。でも、こんな刹那的な瞬間に立ち会えることってすごく難しい。男性の性欲なんて、そそり立ったものから精子を出せばそれだけで快楽を得られる。そんな単純なもの。だけど、コントロール出来ない理由を、これが男性の本能だから、って言葉で片付けるのはおかしいと思し、許されないものだと思う。性欲と愛情の区別が出来るとき、その時が多分生きてることを強く実感して、幸せを感じるんだと思う。

 ここまで、性欲という欲望にフォーカスして、恋愛や愛情について書いてきたけれど、ちょっと気味が悪いね。でもタブー視されていることだからこそ、真剣に向き合いたい。小中学校の性教育では、男女の身体の違いや、避妊の仕方とかを教えるけれど、もっと男女の恋愛に対する価値観の違いだったり、男女の性欲の違いとか、そういうことを教えても良いと思う。でも子どもだったらまだ、そういう感情って分からないんだろうな。何が正解か分からないけれど、自分の持っている欲望には素直でありたい。そして、相手の欲望にも寛容でありたい。おそらくそれが一番幸せに近づける気がする。

ではでは!☆☆☆☆

言葉と感情とインターネットと純粋な心

 何気ない日常が、無数の言葉で埋め尽くされて、感情が燻られる。頭の中は、毎日たくさんの単語たちで埋め尽くされて、そこから適切なものを自分で選んで、私たちは人とコミュニケーションを行う。言葉は相手を喜ばせたり、時によっては傷つけたりする。自分では相手を傷つけていないつもりでも、相手は心を痛めている時だってある。今やインターネットが盛んになってきて、人と顔を合わせて会話をする機会が少なくなっている。多くの人たちは、様々なSNSを駆使して、感情が媒介されない単語の羅列だけで、人とコミュニケーションを図ろうとする。普通、人と接する時は、相手の表情、声の大きさやトーン、ボディーランゲージといった身振り手振りなどで、相手の感情が浮き彫りになって、意識しなくても理解できる。でも、SNS上だと、相手の顔は見えない。だから、文章の末尾に顔文字や絵文字、スタンプなどを使って、単語の羅列に込もっていない感情を精一杯表現しようとする。でも、やっぱり、相手の頭の中の思考や感情なんてものは分からない。僕は、相手の過去を生きていないから、一生かかっても理解することはおそらく出来ないと思う。当たり前のように訪れる誕生日を迎えて、1年という重みが本人に圧し掛かってくる。そんな連続の人生を、あなたの過去を、すべて網羅できない。感情の乗った言葉一言で、辛かった過去の悲しみや寂しさを紛らわして、涙が地面に一滴も零れることなく拭えるとしたら、きっとそれは魔法だ。でも、人が人に伝えることの出来る言葉には限界があって、相手の心が少しでも和らぐような一言を、頭の中を駆け巡っては試行錯誤して、それを日々探し求めている。言葉だけで表現するって、簡単なようで難しい。頭の中に刹那的に出てきた気持ちや感情を、言葉にすること、言語化すること、これは人間が人間であるための証明次項なんだけれど、年齢を重ねるにつれて、難しくなっていく。だから、まだ若い時に、こうやって言語化しておく、形として残しておくことって、重要なことなんじゃないかなって、たまに思う。過去の自分と対話する時が来たら、また読み返せばいい。言葉は、生きていると、経験や知識、偏見や邪見で上書き保存されるから、こうして書いている時の自分の頭の中の感情は人生の中で、一番新鮮で古い。でも、もしかしたら、上書きされてしまうのが嫌だから、無意識的に書いているのかも知れない。言葉によって、感情が揺さぶられるのは、怖いけれど面白い。

 

 

人が感情を燻られる時ってどんな時だろう。例えば、美しい景色に出会えたとき、感動するライブやパフォーマンスを目の当たりにしたとき、好きな人に「好き」って言われたとき、生きていると、感情が動かされることなんて数えきれないほどある。だってそれ自体が人生だから。人は感情が強く燻られると語彙力が極端に無くなる。巷の女子高生が女子同士の会話で多用する単語で、脳内が埋め尽くされる。俯瞰的に見ればちょっと怖いけれど、それがあるべき姿なのかも知れない。言葉にできない。言語化できない。でも、脳内では必ず何かしらの単語が浮かび上がっていて、それによって私たちは感情が動かされているのだと思う。この気持ちを上手く言葉に表したいけれど、浮かび上がってきた単語はジグザグにスルーされて、感情だけが表面に出て、その結果私たちは、言語化が難しくなるのだと思う。喜怒哀楽の感情が、言葉を飛び越えて、表面に溢れ出てしまう。感情は心を裏切らない。言葉では、いくらでも嘘をつけるけれど、溢れ出る感情に嘘はつけない。だから、この世界で、一番信じられるものは、人が感情を動かされている姿なのかもしれない。だから、私たちは、、日々たくさんの人の感情を動かして幸せになってもらうために、言葉を試行錯誤して選び抜いて、相手に伝えるのだと思う。言葉は人を豊かにして、時には傷つけてしまう。この事実を私たちは知っている。だからとても慎重になる。この先、インターネットが主流になってくると、言葉の取り扱いが今よりももっと難しくなると思う。惑わされないように、自分の心を信じて生きていきたいなぁ。心や感情を失くしたら人間じゃなくなる、僕じゃなくなる。ロボットにならないように、自分の感情にいつまでも素直でありたい。子どもの頃の無垢で純粋で好奇心旺盛だった過去の自分でありたい。病棟のベットで横たわって死を迎えるまでずっと、ずっと。そういう馬鹿正直な心を世間に汚されたくないし、忘れたくないなぁ。

 

はい、おわり!

 

ありのままの姿で生きようね。今年も残りわずかだけれど。

 

なんだこの終わりかた。

 

ではでは★★★★

 

「BUMP OF CHICKEN TOUR 2017-2018 PATHFINDER」 10/8 静岡エコパアリーナ ライブレポート

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眠れなかった体に、大きなアラームの音が飛び込んで、僕が頭の中で走り回る。ライブ前夜はいつも寝れない。それは、まだ知らないドキドキとワクワクに感情を燻られているからだと思う。ライブ当日は誰とお会いすることが出来るのかな、もしお会い出来たら何を話そうかな、ライブではどんな曲を演奏するのかな、自分が聴きたいあの曲とか演奏するのかな、なんて妄想に妄想を重ねながら、ライブ前夜はゆっくりと夢の中へ入っていく。いや、むしろ妄想が色んなところに派生して、寝るどころじゃなくなる。睡眠という、1日の身体や心を休める生理的状態に反して、頭の中は既にパレード状態なのである。脳からして見れば、「お前は本当に寝に来たのか?」って思われてるだろう。 しかし、超寝不足状態とは裏腹に、なぜか体は元気なのである。いつもとは違い、パッとベットから起き、顔を洗い、歯を磨き、1日の始まりを難なくと熟していく。まさに、あまりに寝てないと逆にハイになるようなあの状態の完成である。

 

ライブ当日の、家から出て見る景色はどこからか少し違って見える。まるで、心の中のドキドキとワクワクを、現実世界に鏡みたいに映し出してるみたいだ。自分だけライブTを来てることに、少し恥ずかしさも感じながら、現地の静岡エコパアリーナへと足を運んでいく。


この日はお友達とライブに参戦する予定になっていた。ちなみに、一緒に参加するお友達はBUMPのライブが初めてで、あんまりBUMPの曲について知らない。なので僕は事前に、何枚かアルバムをお友達に貸してあげることに。また、僕はありがたいことに、パスファインダー初日の幕張メッセ公演のチケットが取れ、参戦していた&他公演のセトリも一通り見てきたので、何となく演奏される曲は把握していた。なので、演奏される曲に沿って尚且つ、お友達にセトリを悟られないように、ベスト、RAY、Butterfliesのアルバムを貸してあげることに。そして、何の意味もないけど個人的に好きなんだよねという、超バレバレの建前を言いながらHAPPYのシングルも手渡すことに。「このシングルのカップリング曲“pinkie”がめっちゃ良いよ!」と言いながら手渡したので、お友達はいとも容易く察していたと思います。ちなみに、この出来事が10日前くらいだったので、お友達は、当然、全アルバムを聴くことはできず、こちらとしても少し申し訳なさを感じながらも、時間は待ってくれず、「それでも楽しんでもらえたら良いなあ。」と心の中でひとり誓いながら、当日を迎えることに。


浜松駅までは名古屋から新幹線で30分という、この日本の発達した科学技術と安全技術に関心させられながらも、あえて新幹線には乗らずに、JRを乗りに乗り継ぎ2時間くらい掛けて浜松駅に向かいました。ちなみにJRを乗り継いでいくと、名古屋から浜松駅までの運賃は約2,000円、新幹線だと約4,000円。時間を取るかお金を取るか、究極の選択ですね。おそらく大人になればなるほど、時間を取るようになるんだろうなぁ。


また、地味に浜松は初めての地で、名古屋ほどは栄えていないだろうと、少し見下していたら、見下していた自分を殴りたくなるほど栄えており、一瞬で浜松が好きになってしまいました。ちなみに、浜松は、うなぎ、さわやかなどが名物らしく、昼ごはんは駅構内のうなぎ屋さんに入ることに。

 

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僕が食べたのは本日のオススメ欄に記載されていた「天丼とうどんのセット」です。うなぎ屋さんに入って、うな丼を食べないという、餃子の王将に来て餃子を食べない、みたいなことをしましたが、とっても美味しかったので、大満足でした。さらに浜松市は、楽器メーカーとして名高い「ヤマハ」や「カワイ」、「ローランド」などが立地しており、1981年から「音楽の都」として栄えているそうです。そんな所以もあって、浜松駅周辺では、イベントでミニチュアサイズのピアノが売られていたり、ギターを弾いているお兄さんがいたりと、音に包まれた町と化していました。駅周辺を散策していると、BUMPのライブTを着ている人もちらほらと見かけたりしながら、少しずつ確実に心はライブ当日へと近づいていました。


昼食を食べ、満たされた体を持って、いよいよ静岡エコパアリーナに向かうことに。最寄り駅までは浜松駅から約20分。愛野駅まで、各駅停車する電車と共に、ライブTを身に纏った方々が目に飛び込んできます。最寄り駅に電車が近付いていくたび、楽しみな心が落ち着かなくて、眠たくて目をつぶっていながらも、心の中はテンションの高い、ただの狸寝入りと化していました。


そしてついに愛駅に到着しました。流石にライブTを来た人々で溢れかえっています。僕は帰りの切符を購入し、エコパアリーナを目指します。初めての地で会場がどこか分からなかったので、とりあえずライブTを着ている人についていくことに。ここでは何故かGoogleマップを開いたら負けだ、という謎の闘争心が働き、ゆっくりと足を1歩ずつ前進させます。そして途中、空港でしか見たことのない、動く歩道上昇ver.に乗ったら、ついにエコパアリーナに到着しました。

 

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すごくポケモンリーグ感が感じられましたが、写真で撮ったところは、エコパスタジアムらしく、中はグラウンド(?)になっているとのこと。確かに、エコパに向かう途中に幼いサッカー少年がいたなぁと思いながら、自分で自分を納得させました。エコパアリーナの周りは結構、長閑な雰囲気で、都会に住んでいるとあまり見かけることのない芝生などもあり、少し少年心を擽られました。

 

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お馴染みのツアートラックもパシャリ。ツアートラックを見るとライブに来たなぁって改めて強く感じます。そして、エコパに到着したとき、アリーナから若干リハの音が漏れて聞こえてきて、BUMPのライブに初めて来たときのことを思い出してきて、少し心がジーンとなりました。


会場に着いたのが15時30分過ぎだったので、開場まで意外と時間がないことに気付き、お会いしたかったフォロワーさんに、慌てながらも一文字ずつ丁寧にリプライを送ります。開場は17時からなのにも関わらず、すでに待機列に並んでいる人々を横目に、若干焦りを感じながらもTwitterを駆使させます。


このようにして、Twitterで繋がって「会場で会おうね!」って、絶対果たせないかも知れないような、曖昧な約束をして、実際に会場でお会いする、というこの一連の行為。僕は当たり前なようで当たり前じゃないと思ってます。Twitterなんて、嫌だな、とか、この人のツイートあまり見たくないなって思ったら、“フォローを外す”ボタン一つで、フォローを解除することができます。そんな、簡単に解けてしまうような、細い糸のような関係なのに、こんなにもたくさん会場で会っていただける人がいる。これだけで、本当に幸せで、ライブに来て良かったって思える。ホントに不思議で貴重な体験をBUMPのライブ毎にさせてもらって本当にありがとうって、心から言いたいです。


そして、お会いする瞬間も不思議な感覚に襲われる。何なんだろうね、あの感覚。言葉にできないようなあの感覚、分かる人いるのだろうか。自分だけなのだろうか。Twitterで個人が呟かれてることは、その人の人となりや普段考えていることが見える。無意識でありのままが呟かれているようで、実際はおそらくそうじゃない。つまりTwitterは、“人の頭の中を覗ける”、ある種の媒体みたいなものだ。普段、人と話してるときは、頭の中で考えている、何千・何万の言葉の中から、適切な言葉が抽出されて、それが、脳を介して相手に伝わる。また、人の視覚情報は馬鹿に出来なくて、話してる内容よりも、顔の表情や、喋り方、声の大きさ、トーン、間の取り方などで、相手の気持ちまでも汲み取ることが可能である。


すなわち、Twitterでは“頭の中”を見ていて、現実では“人”を見ている。だから、実際お会いした時に、あの不思議な感覚が生じるのだと僕は思う。思っていたよりも、謙虚で静かな方だったんですね。思っていたよりも、面白い方だったんですね。とか色々全部、良い意味でのギャップをいつも感じる。でもそれがまた新鮮で楽しい。あの感覚はTwitterから繋がって実際にお会いするというステップを踏まないと体験できない気がする。そう思えば、当たり前なようで全然当たり前じゃないよ。ここまで長々書いておいて、まだライブレポ全然書いてないけどね。


そして、何人かのフォロワーさんにお会いさせていただき、ついに開場の時間に。待機列で並んでる時間も全然苦じゃなく、むしろ楽しさしかない。一緒に参戦するお友達とも、楽しみを共有しながら、待機列で貴重な、かけがえのない時間を過ごす。当日のブロックはA-2で、ステージから2つ目だ。会場入りして、一番初めに感じたことは「幕張よりめっちゃ近いじゃん。」でした。本当に近い。マイクスタンドが肉眼で確認できる。幕張ではメンバーすら見えなくて、ほとんどモニター越しのライブだったけれど、エコパではちゃんと肉眼で見れることという事実で、もう既に心が一杯一杯だった。会場で流れている洋楽が、最高潮に達している心を落ち着かせるように和らげてくる。途中で入るスタッフさんによる音確認。ドラムから始まり、ベース、ギターが、鼓膜と心臓に響いて鳴り出し、本当にもうすぐなんだって再確認させられる。


そしていよいよ時刻は開演の18時に。「本日はBUMP OF CHICKENパスファインダーツアーにお越しいただき、ありがとうございます。」からアナウンスが続き、「開演まで今しばらくお待ち下さい」で終わる。そして再び、さっきまで流れていた洋楽が流れ出す。徐々に一つになってゆく会場。心の中の整理がつかないまま、会場は暗転し、熱気と興奮に包まれた観客の心の声が溢れ出し、温かくて力強い拍手と共に遂にライブがスタートする。


ステージ背景に大きなスクリーンに映し出される、モノクロの幾何学的な映像。でも規則性は無くて、あらゆる波が自分の人生を映しているような、そんな映像。徐々に、音や映像が盛り上がっていき、映像が終わりに差し掛かるとメンバーが、逆光のシルエットで登場。ヒデちゃん、ヒロ、チャマ、藤くんの順で、ステージにメンバーが現れる。そして、おもむろにギターを観客一人一人に見えるように高く抱える藤くん。本当に格好良い。そして、4人の、BUMP OF CHICKENのライブが遂に、スタートする。


1曲目が始まる前に、その曲のイントロではない、私たちの興奮を助長するように、力強いドラムとベースとギターの音が、会場内に、身体中に鳴り響く。そのイントロが印象的過ぎてずっと頭の中を駆け巡ってる。今も脳内で再生させながら、書いている。


そのインスト楽曲が終わると1曲目の「GO」が、凄まじい数の紙吹雪と共に演奏される。辺り一面に溢れ返る紙吹雪に塗れ、紙吹雪を何とか一枚取ろうと必死になりながら、演奏されるGOが身体中に響き渡る。紙吹雪は散り終わることを知らずに、ラストサビでも、さらに紙吹雪がキラキラと舞い降りてくる。照明と大音量で鳴り響く音と、大量の紙吹雪で満ち溢れたあの光景は、二度とか忘れられないくらい美しかった。そして何より綺麗で輝いていた。とても素晴らしい日になるよ。本当に現実と化した。もう心が1曲目で既に、すべてが満たされた気持ちになった。


そして、2曲目はライブバージョンから始まる「天体観測」。もはやライブバージョンから始まる天体観測を聴きすぎて、CD音源を久しぶりに聞くと、少し違和感すら覚えるくらいである。まさか2曲目に天体観測が来るとは、と予想外だった人も多かったと思うし、その時の周りの歓声が凄かった。天体観測良かったなぁ。安定して、本当に良かった。「♪今というほうき星っっ↑↑」でマイクから少し離れ、「♪今も一人追いかけてる」と、観客に歌わせるのもライブならではである。いつも天体観測は、ライブの最後の方で演奏されるため、演奏が終わった時には、何となく、もうライブが終わってしまったような悲壮感に包まれながら、精一杯PIXMOBで光り輝く拳を高く振り上げる。
でも何回聴いても天体観測は色褪せることない名曲だとしみじみ感じました。あぁ戻りたいなぁ。


3曲目は「ray」。しかもメンバーが花道の前の方に出てきて演奏していたので、ブロックの中にいた人が騒然となり、ぞろぞろとメンバーに向かって動き出したあの瞬間が忘れられません。しかも自分のブロック(A-2)からだと、メンバーが数メートル先に見えたので、もうここまで、好きで尊敬する人たちを近くで見られると、人って逆に冷静になれるんですね。藤くんの喉仏や滴る汗も肉眼で確認できたので、控えめに言ってもうヤバかったです。これは語彙力喪失するのも無理はないです。またrayも、最近のライブでは、終盤の方に演奏される曲となっていました。なので、天体観測と同様に「ここでこの曲!?」と戸惑いながらも興奮を隠せなかった人も多かったと思います。

 

ちなみに幕張公演では、rayの2番のサビラストを藤くんが間違えて歌っていましたが、今回はきちんと間違えずに歌っておりました。rayといえば、個人的に2番のBメロ「♪お別れしたのは何で 何のためだったんだろうな 悲しい光が僕の影を 前に長く伸ばしている」をCD音源とは違うトーンで歌うライブバージョンの歌い方が大好きです。ちなみにいつもカラオケでrayを歌うときは、2番Bメロをライブバージョンで歌いますが、残念ながら誰も気付いてくれません。悲しいのか嬉しいのかよく分かりませんね。また歌詞変えも細かいことろではありますが、ラストサビ「♪あんまり泣かなくなっても ごまかして笑って“いけよ”」と歌っていました。こんなふうに、BUMPのライブはCD音源通りに歌わなくて、ライブアレンジを加えて歌ったり、歌詞を変えて歌ったりすることも、個人的にBUMPのライブの醍醐味の一つだと思っております。


そしてrayの演奏が終わると、ステージが明転して、メンバーのMCが始まります。「こんばんはBUMP OF CHICKENですー!」というチャマのMCからスタート。チャマは毎回MCで、「BUMPのライブに初めて来た人も、曲が分からなくても、新曲のつもりで聞いてね」という心温かいMCをするので、こちら側もすごく心がホッコリしてしまいます。すると突然チャマが「...エコパ...エコパ...エコパ...!」と謎のエコパコールを始めだしたので、観客全体でエコパコールが始まりました。僕は心の中ではずっと、“なんやねんこれ”状態でしたが、こんなにもコールされると、不思議と慣れてきて、自然と楽しんでいる自分がそこにはいました。それに「エコパ」っていう言葉、ちょっと可愛さも覚えますよね。そう思うと、チャマがエコパコールをしたがる気持ちも分かった気がしました。ありがとうチャマ。そして、ここのMCでは他のメンバーはあまり喋らず、ほとんどチャマ劇場で独占されていました。そして「どんどん曲やっていいですかーー!!」というチャマの叫びと共に、再びステージが暗転し、4曲目が始まります。


4曲目、「♪出せない悲鳴が~」とともに始まったのは「トーチ」。
アルバムRAYの中の一曲です。個人的にRAYの中でも好きで思い入れがある曲(もちろん全部大好き)だったので、とても心がジーンと来ました。こういう、言葉にできないけれど、この感覚をどうにかして言葉にしたいけれど、それがとても難しい。でもそれが音楽の良さなのかなって思う。別に、めちゃくちゃ辛かった時にトーチを聴いていて、その頃を思い出してジーンと来た訳でも無くて、何ていうのかな。アルバムが出た頃の自分の生活や、そこで考えていたこととか、色々な人生の思い出を思い出して、ジーンときたというか。上手く言葉に出来ないや。でも音楽って不思議で、なぜかその曲を聴いていた頃の記憶を瞬時に思い出すことができる。そしてBUMPの場合はなぜか、懐かしく思って、それと同時に心が少し切ない気持ちになる。そして最後には、背中を押してもらえる。だから、ほんの少しでも、生きよう、頑張ろうって思える。そんな曲。ライブ中は、体は興奮しながらも、頭の中は良い意味で冷静になれる。トーチ良かったなぁ。また聴きたい。


5曲目は「メロディーフラッグ」。「♪変わる景色に迷う時 微かな音が目印になる」藤くんの紡ぐ言葉一つ一つが力強くて温かかった。あまりこの曲は普段聴かないけれど、ライブで聴くと自然と好きになっちゃう。お友達も、メロディーフラッグは知っていた。昔よく聴いていたとのことで、僕はその事実に驚きながらも、嬉しさを隠せませんでした。


6曲目は「記念撮影」。この曲はカップヌードルのCMに起用されている歌でもあります。初めてYouTubeでリリックビデオと共に耳にした時は、良い歌詞過ぎて、心の中で立ちすくんでしまいました。気持ちの良いテンポで展開され、気持ち良く藤くんの歌声が耳に流れ込んできます。メンバーの背景の大きなスクリーンにはリリックビデオの映像とは少し違った別バージョンの映像が映し出されており、それも相まって楽しませていただきました。


記念撮影が終わると、って書くと撮影が終わったみたいなので、改めて演奏が終わると、再びメンバーのMCが始まります。チャマのお喋りスタートで、メンバーのお馴染みの自己紹介が始まります。メンバー自己紹介で、いつも思うけれど、本当にみんな謙虚です。もう心がホッコリする以外の何者でもありません。そして、ヒデちゃんは相変わらず声を発しません。そしてヒデちゃんの自己紹介の最後にはドラムで音を鳴らし、カッコ良い感じで終わらせていたので、おそらく心の中ではドヤ顔&キメ顔でガッツポーズしていたと思います。


メンバーそれぞれの自己紹介が終わると7曲目、「pinkie」が演奏されます。幕張でこの曲のイントロを聴いたときの、僕自身の「この曲来るの?」という気持ちと、周りの「おおおおおーー!!」という、心の声から漏れた、以外さと驚きと感動が入り混じったざわめきが今でも忘れられません。エコパでも同じように、周りからたくさん心の声が漏れていました。しかも、カップリング曲にも関わらず、この曲は固定のセットリストというのにも驚きです。約7年前のシングルのカップリング曲を固定セトリにした理由も、ぜひメンバーに語って欲しいところです。

 

最後のサビが重なる部分は、「♪変われなくていつも戸惑うけど あなた1人が笑ってくれたら 僕はこれがいい ~~~~~~ あなた1人が聴いてくれたらもうそれでいい wow~~~wow~wow~~~ 未来のあなたが笑ってないなら 歌いかける今に気付いて~ 未来の私を思い出せたら あなたとの今を忘れなくていい」と歌っていました。1人でも聴いてくれたらいい。1人でも笑ってくれたらいい。本当にBUMPは私たち一人一人に向けて、演奏してくれている。一人一人持っている“自分”という存在に語りかけてくれている。すべてが愛しくて、ずるくて、とても大好きです。ありがとう。


8曲目は、「友達の唄」。この曲は、映画「ドラえもん のび太と鉄人兵団~羽ばたけ天使たち~」の主題歌として起用されていた楽曲です。ボワーーーーというイントロからものの数秒で曲名を把握することが出来ました。友達の唄、実際にライブで聴くのはおそらく2回目か、3回目くらいです。でも、何回か聴いたから、というように聴いた回数じゃなくて、同じ曲でも、その一回一回は、その時の心情やセンチメンタルで、捉え方や感じ方が全く異なってきます。初めてこの曲を聴いた時は、ちょうど震災の前で、その当時の記憶が蘇ってくるなぁとか。初めてガイシホールで生で聴いたときは、まだあんまりライブの雰囲気に慣れてなくて、でも優しい藤くんの唄声は、温かく心に沁み込んできたなぁとか、こんな何でもないような、ちょっとした過去の記憶を思い出させてくれる。演奏を聴いていたときは、ずっと棒立ちで、おそらく心の中では泣いていたんだと思う。僕が知らない僕の中で。

 

また、2番Aメロ「♪その中の一度を あの時くれた事」の“あの時”を少し短く歌ったこと。そして2番Bメロ「♪見つけたよ とても温かいもの」の“温かいもの”の部分を「♪温かいもーの」と少し伸ばして歌ったこと。最後に、ラストサビ部分「♪今私が 泣いていてー↑も」と、キーを高くしてライブアレンジをして歌っていたこと。細かいアレンジを挙げればきりがない。けれど、一つ一つの言葉を丁寧に紡いで、優しく歌ってくれていたように感じた。藤くんに照らされた照明の中で、アコギでラストのフレーズを引き終わった後、マイク越しに言ってもらえた「どうもありがとう。」ですべてを持って行かれた気がする。こちらの方こそ、本当にどうもありがとうだよ。っていつも思います。


9曲目は、「三ツ星カルテット」。この曲も意外や意外。GGTツアーでは、一曲目に演奏されていた曲らしく、GGTツアーには僕は参戦していないけど、DVDやライブCDで、もうライブに行ったような気分になっており、「この曲は!」とイントロから変なテンションになっておりました。しかも、メンバー4人が花道の前方位置に颯爽とやってきて、この曲を歌い始めたので、僕のいたブロックはざわつきが半端なかったです。「ヤバい!めっちゃ近い!!」というフレーズが100回くらい周りから、僕の耳に飛び込んできてたと思います。そして僕も「メンバーちっか!」と無意識に発していたと思います。人間って不思議で、あまりに興奮してテンションが上がると、思ったことをほぼ無意識に口に出してしまうんですね。おそらく今までで一番メンバーを近くで肉眼で見ることができたと思います。特にヒロやチャマが演奏中に、自分のいるブロックの方を向いてくれたのがとても印象的で、ただただ恍惚と、拳を掲げながら、近すぎるメンバーの姿と演奏に見入ってました。絶対にチャマと目が合った気がします。むしろ目が合った気しかしません。そして、曲が終わると、花道の先端で、再びMCが始まります。


「藤原さーん、藤原さーん、さくらももこ先生の作品で何が好きですか?」といった、まるで生中継のようなチャマの喋り方に、笑いを誘われながらも、藤くんは、少々困った様子で「ちょっと考える時間が欲しい...」と回答。それならばと、チャマは藤原さんに対する質問を変更。それは、「昨日はどこに行ったのか」という質問内容。それに対して藤くんは、「あのー、あれどこだっけ、中田島...砂丘だっけ?そこ行きました。」と回答。少し気になったので、中田島砂丘について調べてみると、中田島砂丘は、浜名湖の有名な観光スポットらしく、鳥取九十九里浜と並んで、日本三大砂丘の一つなんだそう。また、運が良ければウミガメの産卵が見られることもあるそうで、チャマが静岡公演前日にTwitterに投稿していたウミガメの写真と繋がりますね。


そして中継役のチャマはヒロへと質問を投げかけます。「増川さーん、増川さーん、昨日は何を食べたんですかー?」ヒロは微笑み戸惑いながらも、「タコのから揚げ...そして浜名湖のウナギ!」とヒロらしく、噛みそうになりながらも、ちょっと誇らしげに言葉を発していました。ヒロが喋ると、観客からいつも沸き起こる、あの暖かな笑い声は何なんでしょうね。でも、そんな一面が、ヒロらしくて可愛くて愛しくて尊い。そして最後にチャマは、秀ちゃんに質問を投げかけます。秀ちゃんには、藤くんが戸惑っていた質問事項、「さくらももこ先生の作品で何が一番好きか?」について再び、問われることに。しかし、秀ちゃんは、また同じ質問かいな...と言わんばかりの表情を浮かべながらも、「選べない!全部!」と、マイクを通さず肉声で、満面の笑みで答えてくれました。ちなみに秀ちゃんはいつも、マイクを通さずに、メンバーのみんなにジェスチャーで言葉を介して翻訳してもらうのですが、今回は、僕のブロックからメンバーが近かったこともあり、秀ちゃんの肉声が、ハッキリと聞こえました。僕はその瞬間、あぁ、秀ちゃんの声が...聴けた...。と当たり前だけど当たり前じゃないようなことを思い、ただひたすら、まるでお家にいるみたいに、アットホームな和やかな雰囲気で、微笑ましく喋り合うメンバーの姿にずっとうっとりしていました。本当に心が温かくなります。本当にこの人たちは30代後半の人たちなのかと、疑いながらも、羨ましく感じました。素直で純粋で、それでいて温かい。熱気のような暑さじゃなくて、ほんのりと優しい温かさ。それだけで、もう、生きていて良かったって思える。そして、まだまだ生きたいって思える。


そんなこんなで、チャマらしさ前回のMCが終わった後は、その場所で10曲目、「You were here」が演奏されます。演奏が始まったかと思いきや突然チャマが、僕のいるA-2ブロックの柵を乗り出し、観客に囲まれながら、ベースを弾き出したのです。あまりに唐突な出来事だったので、僕は一瞬何が起きたのか理解することが出来ません。そして、半信半疑のままモニターに目を移すと、なんとそこには、僕のブロック内で観客に優しく囲まれながら、ベースを優雅に弾くチャマがいるではありませんか。おそらく5、6メートル先くらいにチャマがブロック内で横たわっていたと思いますが、全くチャマの姿は肉眼では確認できませんでした。

 

すぐ目の前では、気持ちよさそうに優しく唄声を披露する藤くん。しかし、たまにモニターに目を移せば、ブロック内で淑やかにベースの音色を披露するチャマ。この、ある意味カオスであり得ない状況に、僕は戸惑いを隠せるはずがありません。しかもYou were hereは、バラードチックな曲で、聴き入る系の唄であるにも関わらず、僕の心の中では、どうすれば良いのか分からない感情の交錯が激しく行われていました。絶対に他のメンバーも、チャマの大胆で愉快な行動に、戸惑っていたに違いありません。特に2番の出だしのでは、藤くんが歌詞を間違えて、「♪拾った紙吹雪...まちが~え~た」と、間違えたことを素直に上手くリズムに乗せて、歌っていました。これはおそらく、チャマの行動に動揺を隠せなかった証かも知れませんね。それにしても、「♪まちが~え~た」って、間違えたことを誤魔化さずに、丁寧にそのまま歌っていたの、すごい愛おしかったです。僕も、今度カラオケで、わざと歌詞間違えて、藤くん風に歌ってみようと思います。


そして、曲が終わると、チャマはブロック内から離脱し、メンバーは花道を渡り、再びステージへと戻ります。線香花火のような微かな明るさの照明の中を、藤くんが歩いて行く姿は、架空のファッションショーのような、幻想的で神秘的で独創的でただただ繊細で美しかったです。


4人がステージに戻り、11曲目に演奏されたのは「アンサー」。新しく眩い日差しが照り付ける朝に聴きたくなるようなイントロから始まり、心が再び高揚させられます。ライブで聴くアンサー、すごく良かった。“ライブ向け”っていう表現は正しくないかも知れないけれど、聴いていて単純に明るい気持ちになる。でも歌詞には、そんな明るさの中にも、少し寂しい気持ちや、色とりどりの葛藤がある。明るさと暗さ、陰と陽、そんなギャップさえも美しいメロディでカバーしていて、それがまた幾重にも重なって良さを見出してくれている。良かったなぁ。アンサー。


12曲目は、まさかの「分別奮闘記」。この曲も、幕張でイントロを聴いた時は、「この曲がセトリに?」と、一種の誇大広告のようなセリフが脳内で再生された気がしますが、それと同時にテンションも凄まじく上がります。むしろ僕が奮闘させられました。細かいところではありますが、2番のBメロでは「♪だけど持ってかれてないぜーっっ?↑↑ 紙が貼ってあるぜーっっ?↑↑」と、歌詞の最後にクエスチョンマークをつけるように、ややテンションを高くして、歌っていたのが印象的でした。この部分を歌っている時、おそらく藤くんは、心の中を恥ずかしながらもニヤニヤさせていたと思います。


続いて13曲目は、「アリア」。日産スタジアムのライブ映像と、ライブCDを見過ぎ、聴き過ぎたせいもあってか、初めて生で聴くことが出来るのに、ライブで聴き慣れている感が、心のどこかにありました。しかし、やはり生で聴くアリアは圧巻で美しかった。2番サビ終わり「♪ウォーオーオーオーオーーーーーオオオーーーーー」と、合唱する箇所は、会場の皆さんとの一体感が感じられて嬉しかったし、何より楽しかった。しかし、周りは比較的女性の方が多く、1オクターブくらい高い音程で口ずさんでいるわけです。なので、僕も負けじと、何とか自分の出せる限界地点の高音で合唱しました。もちろん、自分の声は自分に耳には入ってこず、どんな音程になっていたのかは、僕も誰も知る術もありません。でも、微かな途切れそうな声でも、合唱の一部になれたなら、僕はもうそれで大満足です。ありがとう。


そして、MCが開始される間もなく、14曲目の「Butterfly」が演奏されます。この曲と言えば、去年のBFLYドームツアーを彷彿とさせますね。おそらく周りの人たちも、イントロで既にテンションは最高潮に達しているのが容易に窺えて、僕も無意識に飛び跳ねていました。巨大なEDMと音の塊がドカンと僕の身体中に飛び込んできて、疲れ果てていた二の腕の力さえも吹き飛ぶくらい、エネルギーが漲ってました。さらにラストサビでは、金テープ銀テープが発射され、ひらひらと贅を極めて舞い降りてきて、僕は虫取り少年のように、テープを掴もうと必死になり、その結果奇跡的に、金色のテープを1枚ゲットすることが出来ました。後でテープを見返してみると、メンバー4人のサインと、それに加えて公演日の日付と会場名(静岡エコパアリーナ)まで記載されていました。なので、本当にたくさんの方々が関わって、一枚一枚丁寧に、膨大な時間と費用をかけて作成されているんだなぁと思うだけで、本当に感謝の気持ちしか出てこないです。本当にありがとうございます。ありがとうだけじゃ全然足りないよ。たくさんの方々の思いを汲み取らせていただきながら、大切に保管させていただきたいと思います。


テンションがクライマックスに達したButterflyの演奏が終わった後は、再びステージに照明が灯され藤くんが喋ります。「あと2曲で終わってしまいます...。」と名残惜しそうな声色でつぶやく藤くん。毎回BUMPのライブでは、藤くんがライブ終盤に差し掛かると、「あと数曲で終わってしまいます...。」と物寂し気に、そっと話しかけるのですが、今回はなぜか、いつもよりも増して、「帰りたくないなぁ」「まだ歌ってたいなぁ」といった、心の底の底から零れた言葉を含んでいた気がします。いや、毎回のライブは、一期一会で、最初で最後のライブかも知れないから、心の中で思っていること、感じていることは、変わらないと思うけれど、でもやっぱり、あの時は、僕はそんな風に感じた。

 

そんなMCに続き、「みんなの声を聴かせてください。今までで一番大きい声で歌って下さい。」と力強く藤くんが観客に向かって発します。しかし、藤くんのMCの途中で見切り発車的に秀ちゃんのドラムが鳴り、それと同時にリズム隊のみんなも演奏し出して、中途半端な感じで曲がスタートしましたが、それはそれで少し心が軽くなった気がしました。

 

15曲目は「fire sign」。イントロの途中で、MCに付け加えて、「みんなはサビの最後までお休みだけど...。」と、少し慣れないような緊張混じりの優しい声で言ってくれたので、男なのに、この言葉で僕は完全に母性本能を擽られました。キュンとしちゃいました。また、サビ箇所「♪微かでも 見えなくても 命の火が揺れてる」の“命の”という部分が、初日の幕張では裏声を使って歌っていましたが、静岡では、CD音源通りに高いキーで歌ってたのが印象的でした。「♪ナーナーーナナーナナナナーーーーー ナーナーーナナーナナナナーーーーー」の合唱する部分は、僕と会場の皆さんが一つに繋がれた気がして、僕が僕と繋がれた気がして、涙が出そうになりました。僕は、藤くんのMCに込められた“思い”をちゃんと汲み取れたのかな?ちゃんと自分の精一杯の声で歌っていたのかな?分からない。分からないよ。でも、自分で自分のことを、「大きな声出したよ」って認めてあげれば、それで良いと思った。また、合唱している最中の、藤くんとヒロのギターカッティング、チャマのベーススラップがカッコ良過ぎて、右手を掲げて左右に揺らしながら、その弾いているメンバーの姿に惚れ惚れとしてしまいました。演奏が終了すると、藤くんが一言「かなり長くやっちゃったよ...。」確かに幕張に比べるとかなり長く合唱していました。途中、二の腕が悲鳴を上げそうでしたが、リズム隊のカッティングとスラップで、全て吹き飛びました。歌えて良かった。合唱の、光の一つになれて良かった。


そしていよいよ本編ラストの曲へ。「今日はどうもありがとう。最後の曲聞いて下さい。」という短い藤くんの一言から、16曲目に演奏されたのは「リボン」。リボンは、バンド結成20周年イヤーの最後の期間に出来た曲です。赤い星と名付けたメンバー4人がここまで、この瞬間まで、丁寧に解けないように結んできたリボンを、それに包まれたプレゼントを、僕は彼らから受け取った気がしました。また2番サビ「♪意地や恥ずかしさに 負けないで心で 正面から“受け止めるよ”」と、“向き合えるよ”を“受け止めるよ”と、歌詞変えをしていました。圧巻で力強くて、それでいて優しくて、最高だった。ありがとう。リボンの最後のアウトロが終わり、演奏が終了されると、ステージが明転し、温かい拍手とともに、「今日はどうもありがとう~!」とメンバーが言い放ち、舞台裏へ颯爽と帰って行きました。


そして会場内は再び暗転し、アンコールのコールが始まろうとしている雰囲気に包まれます。チャマの誕生日になぞらえて、「Happy Birthdayコール」なのかな。それとも、「supernovaコール」なのかな。それとも「fire signコール」なのかな。アンコールのときはいつも、周りに合わせて、自分も合唱する。だから、一番始めに声を発する人って、ホントに凄いと思う。また、アンコールのときの、観客のコールが徐々に電波的に揃っていく感じは、いつも鳥肌が立つと同時に、どこからか感慨深くなる。

 

そんなことを思いながら、耳に飛び込んできたコールは、まさかの、「エコパ!エコパ!」といった、チャマが冒頭のMCでネタのようにやっていた「エコパコール」であった。僕は、このコールをするという発想は、頭の中に微量もなかったので、「そうくるか!」と、なぜか少しアンコールのコールに関心してしまいました。しばらくエコパコールが続くと、ステージが明転し、メンバー4人が、ライブTを身にまとって、ほっと一息ついた様子で緩やかに出てきます。「エコパコールどうもありがとうーー!!」とチャマが、満面の笑みを浮かべながら、マイク越しに叫ぶ。おそらくメンバーもこのエコパコールは予想外だったに違いない。公式のインスタでも、このエコパコールを見たけれど、やっぱり異様過ぎて、ちょっと笑ってしまう。「エコパ!エコパ!エコパ!エコパ!」でも、ちょっと可愛さもあるけどね。パッっていう口唇破裂音が、可愛さをさらに底上げしている気がする。そして、メンバーはそれぞれ演奏モードに突入し、アンコール1曲目が始まった。

 

アンコール1曲目は「embrace」。イントロが始まった瞬間、周りから、心の声が漏れて聞こえてきた気がした。embraceはライブでは聴くのは初めてだった。ここでもハンドマイク藤原が登場する。初日の幕張公演では、ハンドマイクで歌うという行為が慣れてなさすぎて、マイクのコードを気にしながら、マイクスタンドに引っ掛けながら、緊張した様子で歌っていた。しかし、今回は、慣れた手つきで、マイクを自分のものとし、マイクのコードを引っ掛けることなく、悠々と歌いこなしていた。その姿は、何度見ても、ちょっと不思議で可愛くて愛おしかった。また、2番Bメロ「♪全てこの手のひらに 集めて閉じ込め”た"よ」と閉じ込めるを閉じ込めたと過去形にして、歌詞変えをしていました。そして、最後サビ「♪確かなものは 温もり~~~~~だ~け~~~~~~」と“温もり”の後を凄く溜めて、ステージを指差し、何かをジェスチャーしながら、「♪だけ~~~」と続けて、あざとさ&可愛さ全開の藤くんが見れたので、ちょっと微笑ましくなり、自然と笑みが零れ落ちてしまいました。ライブバージョンで歌われるembrace、めっちゃ好きだなぁ。いつか、恥ずかし島で、アコースティックバージョンで聴いてみたいなぁ。


温かい演奏時間が終わると、「もう一曲やっても良いですかーーー!!?」というチャマの叫びの後に、アンコール2曲目に演奏されたのは「ハルジオン」。僕はガラスのブルースかダイヤモンドが来るかな?と思っていたのですが、「♪虹を作ってた」と、颯爽と演奏が始まったので、こちらも以外でした。ライブバージョンのハルジオンはCD音源とは違い、1番と2番の間にワンコーラスだけ、リズム隊が演奏し、再び2番の出だしを、藤くんが歌う形になっています。本当にその瞬間、自分の価値が生まれた気がしました。手首で光輝く、虹色の一つになれて良かった。あの瞬間、あの場所にいられて良かった。もうずっとずっと大好きって心から思いました。

 

あっという間にハルジオンの演奏が終わると、会場内に温かい拍手が響き渡り、楽しかった...と思うと同時に終わってしまった...と少し儚く悲しくなりました。すると、チャマが急にアコギを抱え出して、「あのー1日早いけれど、みんなからプレゼント貰っても良いですかーー!?」と言い放ちます。予想だにしないチャマの光景に、騒めく観客、戸惑う僕、感じたことのないドキドキ、何だこれは。現実?これ、ホントに現実?と自問自答を繰り返しながら、チャマは陽気にアコギを掻き鳴らして、ある洋楽を歌います。

 

僕は、この曲が何の曲か分かりません。また、おそらく周りの人たちも、ポカーンとしてた様子だったので、曲名が分かった人はいなかった印象。でも、そのポカーンとした様子は、曲名が分からないポカーンではなく、チャマが1人でステージで弾き語っている、その有り得ることのない、夢じゃない目の前のリアルに、ポカーンとしていたと思います。実際僕も、そういう類のポカーンでした。その時の、心から溢れ出した満面の笑みで、嬉しそうに、気持ち良さそうに、おっとりと、幼い少年のように、アコースティックギターの、一音一音を丁寧に掻き鳴らすチャマの姿は、もう一生忘れられません。瞼の裏側に深く刻み込まれています。本当に今でも鮮明に、チャマが歌っている姿を思い出すことが出来ます。ちなみにチャマが弾き語っていたのは、ビヨンセの「XO」という曲で、キス&ハグという意味だそうです。(出所:Live Fans(http://www.livefans.jp))


弾き語りが終わると「みんなから素敵なプレゼントを貰いました。どうもありがとうーー!!」と一言。いや私たちが、貴重で大切なプレゼントをチャマからいただいたよホント。おそらくチャマのMCの意味は、この場所で、このタイミングで、僕がステージで1人で、温かく気持ちよく歌わせて貰って、聴いてくれて、どうもありがとう、という自分自身へのプレゼントでもあり、みんなへのプレゼントでもあるってことなのかなぁと思います。こちらこそ、チャマからかけがえのないプレゼントを貰った。本当に、どうもありがとう。そっくりそのまま、チャマの言葉を繰り返したい。それ、こっちのセリフだよって。ありがとう。そして、チャマ誕生日おめでとう。いつまでも素敵で幸せな38歳でいて下さいね。


温かい拍手と共にチャマの弾き語りは幕を閉じ、最後に藤くんがマイクスタンドに立ち、最後のMCをした。


「今日はどうもありがとう。頭真っ白になっちゃった...。伝えたいことは全部曲に詰めさせていただきました。こういうライブは君たちの人生の中のたった2.3時間で、1曲もせいぜい3~5分くらいですよ。でも、貴重な君たちの時間を割いて、君たちが、今まで僕たちの曲を聴いてくれたから、こうして今、演奏することが出来ています。本当にどうもありがとう。音楽はデジタルの時代になって配信とかも増えていくと思うけれど、これからも音楽やっていくから、僕たちのことは忘れても良いから、また新曲が出たら、CD買ったり、レンタルしたり、お友達から借りたり、YouTubeで聴いたりしてね。ホントに君たちが聴いてくれるから、僕たちはありがたいことに、ここまでやってこれてます。ホントに音楽聴いてね!よろしくお願いします。今日はホントにどうもありがとう。」曖昧で申し訳ないけれど、こんな感じのMCだったと思います。どこまでも温かくて、いつまでも音楽聴き続けるよ、またライブ行くよ、って心から思えた。ありがとうの5文字じゃ、とてもじゃないけれど足りない。大きくてかけがえのない宝物を貰ったような気持ちだった。本当にありがとう。そしてライブに携わっていただいた沢山のスタッフの皆さん、素敵なライブをありがとう。本当にお疲れ様です。


ライブの終了を告げると同時に、会場内撮影OKのアナウンスが流れたので、スクリーンに映るPATHFINDERの文字を写真にしっかり収め、会場を後にしました。
会場を出るとすごく寒い。半袖だと尚更寒い。新幹線の時間があったので、少しライブ会場に留まった後、魔法がかかったエコパアリーナにお別れを告げ、とてつもない余韻に浸りながらライブ会場を後にしました。ライブが終わって帰りの駅に向かう時の感情は、何にも変えがたい。おそらく、脳内の色んな感情が整理出来てないからだと思う。
2.3時間で、こんなに忙しく感情を動かされるってすごい。またライブに行きたいなぁ。何度も言うけれど、本当に素敵なライブをありがとう。


帰りの新幹線では、BUMPのライブに初参戦したお友達と感想などを語り合いながら、余韻に浸っていました。なんと驚いたことに、セットリストの曲のほとんどが分かったらしく、自分でもびっくりし、何より彼女自身がとても驚いていました。「めっちゃ良かった!」って言ってくれた、その一言だけでも、僕はとても嬉しかったです。お誘いして良かったなぁって心から思いました。好きになってくれるといいなぁ。そして、また一緒にライブに参戦できたら良いなぁ。こちらも楽しかったです。どうもありがとう。何回、「ありがとう」って言うんだろうね。でもね、本心で、本当に、感謝してるんだよね。うん、心から。だって、色んなことがあったらから。またライブ行きたいなぁ。というより、行きます。チケット争奪戦がまた繰り広げられるわけだけれど、なんとか運を、僕に、いや、応募するみんなにも同じくらいの分量で降りかかって欲しいなぁ。


ここまで、こんなに長い文章を読んで下さってありがとうございます。もしかたら、途中で「長いわ!」って思ってバーっとスクロールして、ここの最後の文章を読んでる人もいるかも知れないね。でもほんの少しだけでも、ライブで感じたことや、考えたことを共有できたら、それだけで書いて良かったなぁって思います。どうか、素敵なライブがみなさんの記憶に残りますように。
 
幸せな時間をありがとう★★★★

自分+α薬

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「もし、ご通院されている病院がありましたら、こちらにご記入下さい。」
「今、心療内科にご通院されているんですよね...?」
「脈が早いので、心臓のお薬出しておきますね」
 
...全部嘘だ。嘘だ、って叫びたい。でもほっぺをつねっても痛いからこれは紛れもない現実。逃避できない。
 
人々はみんな、日々暮らしているなかで、様々な目を背けたくなるような出来事やニュースに出くわす。


病気、殺人事件、自殺、自然災害、その他私たちの身の回りで起こる辛いこと。でもそれを私たちは、その出来事を聞いている時だけは、胸の底を痛くして、実際心の中では、“私には起こりえない・関係ない”って思ってる。私が当事者になるはずなんか絶対ないって思ってる。というか、そう思わないと、この現実に耐えられないし、自分を保っていられない。だって人はみんな必ず最後には“死ぬ”ことを分かっていながらも、日常生活では、病棟のベットで、悲しい顔を浮かべてる親族に見守られながら、自分が死んでいく姿を想像しない。もしかしたら、想像しないように、神様があらかじめ脳にプログラミングしているのかも知れない。
 
でもプログラミングに逆らって、実際、死んでみたら案外、楽になるのかもしれないね。1人くらい死んでも誰も悲しまないよね。“アイツ死んだんだ”、くらいに思われるだけだよね。死んだことなんて、他の人にしてみれば、一瞬の悲しみで、時間が過ぎれば、何事も無かったかのように暮らすんだよね?分からないけれど。
 
若者の死因の1位が「自殺」っていうのは、感覚的になんとなく分かる気がする。
 
人は自殺するとき、1人でも首を吊ったり、包丁を胸に突き刺したりすれば死ぬことは出来る。でも孤独な状態で死んでしまうと、死んでから、他の人に、「あの人亡くなったんだなぁ」っていうように、過去に“消えた”ことしか頭に残らない。だったら、もっと多くの人巻き込んで、出来るだけ迷惑をかけて死んでやろうって思うと思う。手段なんていくらでもある。駅のホームで電車に飛び込むのもあり。踏切の音が鳴ってる最中に、電車が来るタイミングと同時に飛び込むのもあり。人が集まる商店街や歓楽街で車を暴走させたり、包丁を持ってその場を真っ赤に染めてもいい。こうやって、多くの人を巻き込んで、刑務所に入る前に自殺することで、大きなニュースとなり、たくさんの人の心に重くて深い傷が刻まれると思う。犯罪者の思考ってこんな感じなのかなぁ。妄想で想像しかないけれど。
 
人は辛くて考えが行き詰まると“サイコパス”になれる気がする。でも、そんなぐちゃぐちゃな思考の中にも希望は少なからずあって、それが何らかの形で、生きる勇気に繋げてくれているのだと思う。生きる希望は何だっていいと思う。だから僕は零れ落ちた微かな光だけでも、掬って生きていきたいな。難しいね、“生きる”って。


 
ここまで長い文章を読んでくださってありがとうございます。

 

深く考えずに、ありのままの自分で生きたいなぁ。