Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

太陽系探索3日目/テバット

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 真っ白な絵の具のキャンバスに、感情という色が混ざり合って、ひとつひとつの色が結び合って虹色に輝いていた。今でもあの頃の記憶を鮮明に思い出すことができるのは、ダイヤモンドの原石のように、光沢を帯びてキラキラに煌めいていたからだろう。何事にも支配されることなく心は広大で自由だった。少し成長した体と心と一緒に、二度と来ることのない夏がまたやってくる。思春期という貴重な切符を手にして、自分のことを好きになったり嫌いになったり、友達と笑いあったりふざけ合ったりした。もちろん恋愛だって、“好き”って気持ちの正体なんて分からないまま、恥ずかしさに隠れて自分を出せないでいた。噂が噂を呼んではたちまち学校中に広まって、それに一喜一憂したりして、そんな毎日が繰り広げられた。

 夏の始まりは、あの頃の思春期や甘酸っぱい青春にドレスを纏わせるように、何かが始まる予感で身体中が埋め尽くされる。真夏の8月に、細い田んぼのあぜ道を、汗をかきながら、精一杯自転車のハンドルを握って走り回った。中学生のころにとって自転車は必須アイテムだった。どこにだって行けた。1年に1回開催される地元の花火大会は特に記憶に新しい。屋台と大勢の人混みに塗れて買った焼きそばとから揚げ。夜空に煌めく打ち上げ花火を見上げては、まだまだ童心な気持ちのなかに、何かが開花しそうな気持ちが芽生えていく。小さいからだに、余すことなく入り込んでくる打ち上げ花火の爆音が、夏という概念の輪郭を縁取っていく。右も左も分からない幼い自分のなかに、確かに“夏”が刻み込まれていく。

   いつか女の子と二人で花火を見に行きたいなんて、思春期の脳内に身を任せて、そんな妄想をしながら、夏のカウントダウンが進んでいく。変わらないものなんて、何一つないけれど、確かにあの頃感じた気持ちは、まだ心の奥で光っていた。夏という季節が来ると毎回、心の記憶の引き出しを探し回ることなく、無意識的に光の速度で見つけ出せる。匂いも景色も心情もすべて、真っ白な状態で掘り起こせる。こういう“ふとした瞬間”を大切にしたいなあ。

太陽系探索2日目/レクセル

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 薬の副作用的な速度で、夏の蒸し暑さは、好奇心旺盛な子どもの頃の身体を刺激してくる。時間とともに少しずつアップデートされてゆく探求心や知的好奇心は、夏場になると、とどまることを知らない。朝早くから捕まえにいったカブトムシと、虫よけスプレーの匂いと一緒にみた花火、日射しが照り付ける中おばあちゃん家で行ったBBQ、友達と心マックスではしゃぎまくったプール。どんな場面でもスーパースターになれた。  

 子どもの頃は、野性的で本能的だから、未来に起こる出来事をあまり予測できない。だからあの頃は「今」という時間1秒1秒を噛みしめて敏感に生きていた。毎日がドキドキで魔法のような日々だった。子どものころは学校が世界のすべてだから、“現実”というものは“夏休みの宿題”だった。年を重ねた今では、子どもの頃に抱いていた“現実”の意味とは随分変わってしまっているけれど、あの頃の自分にとっては目を背けたくなる存在だった。そんな目を背けたくなるような夏休みの宿題だったけれど、楽しさのコップが最大限に達して、そこからたくさん零れたしずくがモチベーションやエネルギーに変わり、容易く宿題を熟すことができた。つまり、行動力やエネルギーの源は、かけがえのない好奇心だった。

 こうして今、世間一般的に“大人”と呼ばれる年齢に差し掛かってやっと、子どもの頃の未熟な好奇心が、貴重なもので大切なものだったんだと気付く。子どもの頃はそれが当たり前で、毎日がスポンジのように、たくさんの知恵の木の実を拾っては吸収していた。人間は当たり前の環境のなかにいると、その当たり前の大切さに気付かない。普段当たり前に生活できているのも、食べることができているのも、外に出て遊ぶことができているのも、それが出来なくなってはじめて、当たり前の大切さに気付くことができる。子どもの頃に、それに気付けたらなって思うけれど、気付いてしまったら、その瞬間に好奇心や探求心がなくなってゆくと思う。世の中には絶対という言葉は存在しなくて、知らないほうが良いことだってたくさんある。いつまでも子どもの気持ちのままいられたらいいなって思うけれど、やはり一周回って子どもの頃の気持ちのままが良いような気がする。

太陽系探索1日目/クリンケンベルグ

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 終業式がおわり、待ちに待った夏休みの開幕が告げられる。夏休みは何して過ごそうかなってぐるぐる考えていたあの時間が好きだった。ランドセルに詰め込まれた重くて大きな荷物は、楽しみに満ち溢れた夏休みを体現しているようだった。真夏の日射しとセミの鳴き声、乾いたプールサイドとドキドキの通知表。胸の高鳴りは夏本番の合図で、予期できない夏のイベントの数々は思い出すだけで、生きる希望に変わる。

 小さいころは、生きている実感なんてないに等しくて、毎日が刺激に満ち溢れていて、それはとてもキラキラに輝いていた。扇風機を目の前にすれば、喉から声を出して宇宙人になれた。田んぼの畦道を渡れば、用水路に目が移って、未知の生物との遭遇ができた。日が沈めば、学校でもらった星座観察キットを使って、夜空を見上げては、夏の大三角形やオリオン座を見つけようとした。こういう一瞬一瞬のできごとは氷山の一角に過ぎないけれど、今となって振り返ると、当たり前だったことが当たり前じゃなかったんだと気付く。そして今この瞬間も、過去の記憶を辿ることができているのも当たり前じゃないかもしれない。

 夏休みと聞くと、真っ先に僕は“朝のラジオ体操”が思い浮かぶ。気怠さと好奇心に包まれて、眠い目をこすって、蒸し暑い玄関から一歩を踏みだす。公園に着くと、今までの眠気なんて吹き飛ぶほど、どこからかワクワクする気持ちがこみ上げてくる。その地区の会長的な人が前に立ってラジオ体操を始める。やはり朝から体を動かしてみると気持ちが良い。あのころは「なんで僕は朝からラジオ体操をしているのだろう」なんて考えたこともなかった。とりあえずその場所に足を運んでいた。しかし今となっては、行動する前に何かと理由を付け加えて、行動しない自分を正当化してしまっている。そんな自分が時々いやに感じたりもする。ある対象物において批判や否定をするときに「子ども」という表現を使う人がいる。その行為自体に善し悪しは存在しないけれど、やはり耳に飛び込んでくると良い気はしない。なぜならそれは、自分の過去を否定しているように聞こえてしまうからなのかもしれない。人間誰しも「子ども」という肩書きの時代があって、それを心のどこかに持って「今」という時間を生きている。大人になるということの、言葉の意味の裏側に、小さいころの記憶を裁断するという意味は含まれていない。けれど、どうしても、現代社会のしがらみにさいなまれて、そうせざるを得ない時が来たりする。それは実に様々な言い方に変換されて、時には心に大きな傷を患ってしまうことだってある。自分の過去を信じているから、裏切られた時の反動も大きくなる。

 ほんとの自分って何だろう。生きるって何だろう。考えれば考えるほど分からなくなるけれど、この星で生きているうちは、ずっと答えが出ないまま考え続けて星になるのだと思う。数分間のラジオ体操が終わると、スタンプを押してもらえて、各自解散になった。そして家に帰り、睡魔に負けて再び夢の中へ。今思えば、朝早起きしてちょっと体を動かしてまた寝るっていう、全く意味の分からない行動をしていたことが分かる。参加するたびにもらえるスタンプのために、ラジオ体操に行っていたようなものだ。だけれど、こんな無意味で無駄だと思えることでも、今では宝物のように心の中で光輝いているから、人生において無駄なことなんて何一つ存在しないんだと思う。おそらく未来から見た今もきっと、未来では心の中で光輝いていると思う。夜空に煌めく星を結んで星座を作るように、人生は繋がっていたい。

結婚披露宴の“ケーキ入刀”に代わる愛の共同作業7選

 

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 突然ですが皆さんは結婚披露宴に参加したことがありますでしょうか?

 ちなみに僕はありません。参加したことがない、と言い切るとウソになってしまいますが、18年くらい前に、一度結婚披露宴に行った記憶があるのですが、そんな遥か遠い記憶の類は、経験したことがないのと同義のようなものなので、ここでは参加したことがないと言っておきます。

 僕の過去の話はさておき、結婚披露宴で欠かせないものは何でしょうか?今や、結婚式披露宴の花形となっている定番の演出「ケーキ入刀」です。ケーキカットはホヤホヤの新郎新婦が行う初めての共同作業。ちなみにケーキ入刀は、ケーキをカットすることによって、ゲストのみんなに幸せをおすそ分けするという意味も含まれているそう。

 しかし今日では、ケーキ入刀の他にも、シャンパンタワーキャンドルサービスなど、二人でする共同作業の演出形式は多様化しつつあります。

 そこで僕はふとこんなことを思いました。多様化してゆく共同作業ならば、もっと他にも結婚披露宴で出来るドラマティックでロマンチックな演出があるのではないかと。

 ということで今回は、結婚披露宴の“ケーキ入刀”に置き換わる愛の共同作業について、いくつか取り上げていきたいと思います。

 

それでは、まいります。

 

 

餅つき

 “共同作業”という言葉から一番初めに連想されたのが餅つきです。もち米と臼と杵を用意すれば準備完了です。あとは新郎新婦ふたりで一緒に餅をつくのもよし、会場内で餅をつきたい人を呼び寄せ、ワイワイ楽しみながらやるのもよし。いずれにせよ、盛り上がることは間違いなしです。出来上がったら、餅を披露宴の皆さんにシェアしてあげましょう。また餅は、昔から縁起の良い食べ物として貴重なものであり、行事や節目のお祝いとして、天皇や貴族の間で食べられるようになったと言われています。生涯ふたりの幸せな新婚生活を願うといった意味でも、餅を食べること、そしてその餅をみんなで分け合って食べることで、みんなHAPPYになるのです。

 

二人羽織

  二人羽織とは、袖に手を通さずに羽織を着た人の後ろから、もう一人が羽織の中に入り袖から手を出し、前の人に食べ物を食べさせたりして、その様子を楽しむ芸のひとつです。新婦さんが羽織の中に入り、前の新郎さんに食べ物を与える形式が良いでしょう。食べ物の候補としては、うどんやスパゲティなどの麺類、ショートケーキやシュークリームなどのスイーツ系など様々ありますが、冬場ならばおでん、夏場ならばかき氷で決まりでしょう。その時は、ダチョウ倶楽部さんのように、オーバーリアクションをしたりして、会場内を興奮と爆笑の渦に巻き込んじゃってください。

 

モノボケ

  昔テレビでやっていた、某お笑い番組で繰り広げられていたジャンルのひとつです。挑戦するのはもちろん新郎新婦の二人。事前に用意された小道具が二人のもとに運ばれてきます。そして司会進行の方が「それではファイナルチャレンジスタート!」と言い、披露宴に来ている人の中からランダムに5人が選ばれ、その人たちを笑わせたらご祝儀として100万円が新郎新婦に送られます。ちなみに制限時間は1分。ネタ披露のあいだ、会場内が静まりかえれば、新郎新婦にとってはたちまち拷問となりえる1分とも言えるでしょう。しかし、一度笑いを取ってしまえばこっちのモンです。もしかしたら「あなた、こんな面白い一面もあったのね…!」とお互いに新たな気づきが生まれて、さらにが深まるかもしれません。

 

卓球の試合

  新郎新婦vs親族一員でダブルスの試合です。新婦さんは基本ウエディングドレスを着ているため、卓球をするには非常に動きにくい服装です。旅館で温泉に癒されたあと、浴衣を着て疲れに身を任せながら、ほんわかと繰り広げられる卓球ではなく、ここでは敢えてガチな試合をやって見せましょう。親族のなかにおそらく一人くらいは、卓球のプロ的な腕前を持っている人がいるはずです。その人がひとたび本気を出せば、新郎新婦チームも黙ってはいられません。きっと新郎さんはタキシードの袖を無理やりめくり、新婦さんは、ドレスの覚束ない足元を一ミリも気にすることなく、試合に没頭するでしょう。会場の皆さんも、まるでオリンピックの日本代表選手を応援するかのような熱い声援を送ってくれるはずです。

 

ジグソーパズル

  「さて、ここで新郎新婦による二人の共同作業です!」という司会者の言葉とともに、無数のピースが散りばめられたジグソーパズルが運ばれてきます。その後は、すっと息をするように、二人で黙々とジグソーパズルをやり始めます。また、会場内の皆さんにもジグソーパズルの進行具合が分かるように、二人の頭上にカメラがセッティングしてあり、それがステージの大きなモニターに映し出されています。会場内の人たちは、ピースがカチッとはまるたびに「おおおお!!」と拍手と同時に歓声があがります。二人でお互いに愛のピースをひとつひとつ紡いでいく、ピースが上手く見つけられない、はまらないなど、大きな困難が立ち向かっても、お互いに協力し合って乗り越えてゆく、そんなことを体現しているようなこの感じ。もしかしたらこれが本当の“共同作業”と言えるのかもしれませんね。

 

 

ザ・たっちのネタ「幽体離脱

  幽体離脱のネタとは、二人が上下に重なった状態から上に乗っている人が幽体離脱~!」と言いながら起き上がる、というものである、司会者の方が「それでは二人の共同作業です!」と言った直後に、緊張した沈黙が流れるなか、咄嗟に新郎新婦ふたりが上下に重なり合います。このとき会場内の心のざわめきが声として漏れて、沈黙が期待に代わります。そして静寂でプレッシャー漂う空気感のなか、新婦さんが幽体離脱~!」と少し高いキーで喉を震わせます。会場内は懐かしさとこの空気感のなかでよく頑張ったという賞賛の意を示すでしょう。親族や披露宴の参加者たちの記念撮影は、新郎新婦ふたりがきれいにピタッと上下に重なっている写真と、幽体離脱後の写真の二枚をキッチリ収めてくれるはずです。

 

笑ってはいけない結婚式披露宴

  新郎新婦ふたりを笑わせるため、親族や参加者さんたちが全力で面白おかしく振舞います。もちろん、笑ってしまった場合は「デデーン!○○(本人の名前)アウト!!」というコールが会場内に響き渡り、お尻を叩かれます。もはやここまで来ると、どこが共同作業なんだろうと思わざるを得ないですが、二人で笑わないようにするという点では、一種の共同作業と言えるのではないでしょうか。二人を笑わせようとする刺客さんたちだけでなく、新郎新婦ふたりで笑わせ合うという自爆的な一面も相まみえるかもしれないので、そこも見どころです。ちなみに、恒例のビンタは実施されないので安心してください。結婚式披露宴でお互いに、みんなで笑顔になった経験はもしかしたら、一生の思い出となって、今後二人の愛を紡いでゆく光となるかもしれないですね。

 

 

...いかがでしたでしょうか?

 一生に一度の結婚式披露宴に、少しだけ幸せのスパイスを加えるような、そんな共同作業を提案してみてはどうでしょうか。個人的に“餅つき”は実現可能な気もします。というより、今単純に餅が食べたい欲が強いです。きなこに塗して、口の中をもち米ときなこでいっぱいにしたいですね。おなかが空いてきたので、この辺で終わりにしたいと思います。

 

ではでは!★★★★

恋と初夏の涼風

 空が薄暗くなってきたころ、恋のモヤモヤに似た蒸し暑さ漂う空気を肌で感じながら、どこか知らない遠い場所で、野太く鳴り響く花火の音が、かすかに耳に飛び込んでくる。それに気を取られて、そっと窓のカーテンに手を伸ばす。僕がこの部屋にいるあいだに、別の場所では賑やかそうなお祭りが繰り広げられているみたいだ。てのひらで掴めそうなくらい小さな花火が瞼にうつる。その瞬間、僕は、鈴虫と虫よけスプレーのにおいを思い出しながら、“夏”を感じたような気がした。夜道を歩いていると、ふと前触れもなく訪れる蒸し暑い初夏の涼風は、刹那的に幼いころの記憶を呼び起こしてくれる。“夏”という季節を生まれてから二十数回は体験してきたけれど、すべてが一つひとつ違う夏の形だった。それはおそらく、そのとき置かれている環境や状況によって、心が変化しているからだろう。

 年齢を重ねるにつれて、心に空く穴は少しずつ大きくなっていく。穴の直径が大きくなるにつれて、本当の自分というものも失われていくような気さえする。そもそも本当の自分なんて存在しているようで存在していないのだけれど、感情が揺さぶられるとふと泣きたくなる時があるように、嬉しいときは笑っていられるように、そんな複雑な感情の種類のなかに、本当の自分というものが宿っているのだろう。心にぽっかり空いた穴の円周に比例して、そんな正体不明の本当の自分というものが徐々に小さくなってゆくのだけれど、なぜか夏という季節が巡るたびに、幼いころの記憶というものは、より深く鮮明に思い出すことができる。幼いころは、後先考えずにただひたすら“今”を見ていた。無邪気で素直で綺麗な心を持って今をひたすらに生きていた。もしかしたら本当の自分というものは、そこにあるのかもしれない。心に空いた穴はふさぐことは出来ないけれど、穴の輪郭をなぞるように、幼いころの初夏のメモリーは、そこに離れないようにぎゅっと抱き着いている。人間は本来、野性的な生き物だから、そんな叙情的な思考さえも持ち合わせているのかもね。年を取るにつれて何かをなくしてゆく生き物だけれど、そんな心切なくなるような夏の光のカケラは、ずっと心の手の届くところに置いて老いておきたい。生きていることを正当化する前に、すぐに心の引き出しから見つかるように。そこにずーっとどっぷり浸っていられるように。

 

ではでは!☆☆☆☆