Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

もし空からお金が降ってきたらやりたいこと7選

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 「もし宝くじで10億円当たったら何したい?」誰もが一度は妄想したことのある議題だろう。貯金?海外旅行?高級車買う?一軒家購入?アメリカン・ドリームを夢に見る頭の中の妄想はとどまるところを知らずに、私たちの時間をいともたやすく奪っていきます。そんな、脳内がお花畑と化している最中、「当たるわけないよ。現実見なよ。」なんて言われたら、スマブラのキャラ“ドンキーコング”でBボタンから繰り広げられるジャイアントパンチを、とりあえず一発食らわせておきたいところです。

 とは言っても昨今では「お金」というものは、幸せになるためには必要不可欠であり、あって困ることはありません。幸福を追求する権利はみんな誰にでも持つことができ、人間誰しもがそのような欲を持っています。しかし、何をもって「幸せ」と感じるかは人それぞれであり、そこには善し悪しの概念は存在しません。「幸せ」の度合いの中に「お金」というものが介入すればするほど、本当の「幸せ」が見えづらくなるような気さえします。

 でもやはり、人間たるもの、「お金」は誰しもが手に入れたいものでしょう。じゃなければ、冒頭で取りあげた「宝くじで10億円当たったら何したい?」という議題は、巷でこんなにも妄想されることはないはずです。

 しかしこの議題は、すでに手元に10億円あることを前提として、そこから何をしたいのかを問いかけています。いや、そうじゃない。もっと夢があって現実味のない話をしたい。仮にドラえもんがいるとして、もしもボックスを貸してもらえるとしたら、僕は「もしも宝くじで10億円当たったら…。」じゃなくて、「もしも空から大量のお金が降ってきたら…。」と電話越しに呟きます。だってどうせなら、自分だけHAPPYになるんじゃなくて、みんなHAPPYでいたいじゃないですか。

ということで、前置きが長くなりましたが、「もし空からお金が降ってきたら」何をするか。自分なりに考えましたので、もし空からお金が降ってきたときは、参考にしてみると良いかもしれません。ではまいります。

 

虫取り網を振り回す

  さあ童心に戻って周りの目など気にせずに、虫取り網を思う存分振り回そうではありませんか。しかし、くれぐれも周りの人たちには細心の注意を払いましょう。そして忘れてはいけないのが虫取りかご。必ず虫取り網とセットで使用しましょう。確保したマネーは逃げないように早く虫取りかごへ入れてあげてください。この日だけは虫取りかごがATMの役目を果たしてくれます。また、虫取りかごを日常生活にも取り入れて財布として使うのもアリなのではないでしょうか。首からぶら下げておくことで、どこかに忘れたり失くしたりする心配もありません。お金を増やしたいと思ったらヘビの抜け殻でも入れておきましょう。

 

掃除機で吸う

  虫取り網でも十分な資金収集ができます。しかし吸い込む威力には勝てません。お金が降っている状況下において、掃除機というのは超強力な武器となり得ます。空中を舞うお札を吸い込むのもよし、床に落ちているお札を吸い込むのもよし。そう、掃除機を使えば可能性は無限大に広がります。ちなみに掃除機は、吸引力が凄まじいで有名なダイソンにしましょう。これで掃除機を抱えたライバルに勝てるはずです。

 

空を見上げてPVの主人公になる

  アーティストやバンドのPVを見ていると、よく目にする光景ってありますよね。遠い空を見上げて何か物思いにふけっている光景や、太陽に手をかざしている光景、恋愛ソングだと泣いている女の子、何かを思い出して咄嗟に夜の道を駆け出す女の子、挙げればキリがないです。そして今、目の前には無数のお金が空を舞っています。これはもう、宙を舞うお金を見渡したあと、ゆっくりと右手の掌を差し出して、手に舞い込んだお金を見つめて、黄昏ましょう。そのあとは、お金をギュッと握りしめるのもよし、たんぽぽに息を吹きかけるように、そっとお札を舞い散らせるのもよし。あなた次第であなただけのPVを完成させちゃいましょう。

 

バスタブを用意して、そこに札束を敷き詰めてセレブになる

  “セレブ”という言葉から皆さんは何を連想されるでしょうか?パッと思いつくのは、お札が一杯に散らされたバスタブで、万札を扇子のように重ねて、優雅に扇ぎながら幸福に満ち溢れている人の姿です。「これであなたもセレブな生活に!」みたいなキャッチコピーの背景に、札束風呂に入って満面の笑みを浮かべている人の画像が起用されている誇大広告を見たことのある人も多いと思います。そんな夢みたいなことは、宝くじを当てない限り実現させることは到底不可能に近いです。しかし、札束が降り注ぐ空の下では、そんなセレブ気分をいとも容易く感じることができます。バスタブを持ってくるだけで、自動的に札束が降り積もっていき、気が付いたら札束風呂ができあがっています。その後は、お風呂にダイブするのもよし、扇子を作ってセレブリティを感じるのもよし、写真を撮ってインスタに投稿するのもよし。さあ、これであなたもセレブな生活に。

 

路上ライブをする

  ライブという空間は、音楽だけでなく、音響や照明、演出など様々な要素が融合しあって成り立っています。つまり音楽以外の副次的要因が必要不可欠と言っても過言ではないのです。そこで、お金が降り注ぐ空をバックに、音を奏でてしまいましょう。きっと、実際のライブでいうところの、紙吹雪金・銀テープと同じように機能してくれるはずです。ちなみに演奏する楽曲は、松平健さんの「マツケンサンバ」で決まりです。オーディエンスのみんなで踊り明かしちゃいましょう。またサビの「♪恋せよ アミーゴ 踊ろうセニョリータ 眠りさえ忘れて 踊り明かそう」の部分は、ライブアレンジを加えて「♪恋せよ アミーゴ 踊ろうセニョリータ お金さえ忘れて 踊り明かそう」と歌詞を変えて歌うと良いでしょう。こんな時は、踊って楽しんだもん勝ちです。お金が降る注ぐ街で、心躍るような愉快で爽快なサンバが繰り広げられます。

 

慈善団体に寄付する

  お金というものを手に入れたからには、何か人のためになるようなことがしたいという良心が働くのは、誰もが心のどこかに必ず持ち合わせているものです。しかし、最近では芸能人たちが多額の金額を寄付すれば、「売名目的か?」など、インターネット上で批判が起きたりして、僕はそれに対して偽善でも売名目的でも、寄付という行為自体は立派な行動であると思うので、全然良いと思うし、むしろ批判されることを先回りして、自ら「売名目的です!」と率直に言い放ったほうが良いんじゃないかと思うところもあったりと、なんとも複雑な気分です。お金に色はないので、黒くても白くても、その行動を尊重したいなあ。

 

YouTubeに投稿する

  近年流行りのYouTuberに便乗して、空からお金が降っている様子を撮影して、YouTubeに投稿しちゃいましょう。YouTubeに動画を投稿することで、空から降ってくるお金を手に入れて、さらにYouTube動画再生回数広告収入でお金を稼ぐことができます。まさに勝利のスパイラルです。夢の具現化とはまさにこのことでしょう。ちなみに投稿する動画のタイトルは「【悲劇】空からお金が降ってきた!!」で決定です。

 

 

 

…いかがだったでしょうか。空からお金が降ってくると考えただけで、夢が無限大に広がりますね。僕はやはり初心に戻って虫取り網を勢いよく振り回したいです。みなさんも、もしお金が空から舞い降りてきたときのことを見据えて、色々な策を練っておいても良いかもしれません。僕はとりあえず虫取り網と虫取りかごを用意しておきます。

 

ではでは!★★★★

風船

 無数に立ち並ぶビルの街並みや、地下鉄の駅のホームのにおい、暑い季節が間近に迫って期待と不安に胸を躍らせる6月。儚く刹那的に、何度も“あの頃”を思い出しては、らせん階段のようにスルッと頭から抜けてゆく。悲しい思い出も、楽しい思い出もぜんぶ、年齢を重ねるたびに昇華してゆく。昇華しては抜けていく。その繰り返し。においと景色。この二つは、遠い過去の記憶を呼び覚ますための重要なアイテムで、それはふとした瞬間に降りてくる。その瞬間は懐かしさと同時に楽しいという感情も湧き出てくる。ああこの瞬間のために生きてきたんだなあって感じることさえあったりする。悲しい記憶も楽しい記憶もぜんぶ、これから先生きていくなかで降りてくるなら、少しでも生きてゆく意味がある気がする。
 においと景色から舞い降りてくる懐かしさに出会うためには、子どもの頃のような野性的な心や好奇心が大切だと思う。でも大きくなるにつれて、そういう類のものは、少しづつ削ぎ落とされていく。おそらく自分のなかで育まれた世間体や社会性という、変えようのない事実に踊らされているだけ。でも否定はしない。なぜなら、否定をすれば自分という存在までも否定しているような気がするから。こんな感覚はいつまで経っても腑に落ちなくて、ふわふわと宙を舞う風船のようなものが、ゆらゆらと風に靡かれながら、行き場もなく上空へ上がっていく。その風船は宇宙空間にたどり着いても決して割れることはなくて、ずっと答えが出ないままゆらゆらと“どこか”へ進んでいく。

 こんな感覚を身にまとって、二十数年間生きてきたけれど、やはり答えは出なくて、モヤモヤしたままで、それでも僕のために世間は待ってくれなくて、当たり前のように生活は続いてゆく。ある意味狂気に満ち溢れているような、そんな気さえする。身の回りの人たちは、何を考えながら生きているんだろう、どんなビジョンを描きながら生きているんだろう。最近は、意味もなく考えたりする。もちろんすべての人に人生があってドラマがある。正解不正解の概念なんて存在しないけれど、だからこそ「こんな生き方もあるのかぁ」って思ったりして、それが面白く感じたりする。まさに好奇心が生まれる瞬間である。人間、面白いことや刺激がなくても生きていけるけれど、あったほうが何倍も楽しいよね。踊らされないで踊りたい。生かされないで生きたい。

旅行


 いつも見ている景色なのに、今日はどこか違って見えた。旅から帰ってきた日は、身体に絡まる隅々の細胞たちが言うことを聞いてくれなくて、摩耗し切った肉体に残るのは猛烈な疲れと眠気しかない。次々と目の前に現れる見慣れない風景に、日常では味わうことのない唯ならぬ刺激を受けて、身体が良い意味で悲鳴を上げている。ちょっとだけ、いつもとは違う自分に出会えた気がするから、どこか遠くの場所に旅をするのはすごく好きだ。クリームパスタに添えるパセリのような、休憩時間に嗜むコーヒーブレイクのような、ふとした何気ない瞬間にするキスのような。こんなちょっぴりした気持ちよさみたいなものが、少しずつ重なって非日常に変わる。変わらない生活に光が射し込む。生活は変わらないから、また日常に戻るのだけれど、旅をした思い出は、スマホで撮った写真では語ることのできないくらい、心の奥底でずーっと光を放っている。
 旅先でいつも思うことがある。それは、ここにいる人たちは私たちと同じように生活をしていて、ここで生きているってこと。当たり前だけれど、僕にとっては当たり前じゃないように感じる。もちろん、旅をしているのも当たり前じゃないし、こうして考えを巡らせることが出来るのも当たり前じゃない。突き詰めていけば、すべてが当たり前じゃなくなる。ここにいる人たちは何を考えて毎日を生きているのだろうとか、今すれ違った人はどんな人生を歩んできたのだろうとか、こんなこと考えても、どうしようもないのだけれど、何か無意識に感じることがあって、刺激に満ち溢れた頭のなかに、ポツンと答えのない問いだけが現れる。こうして普段あまり考えないようなことを、旅先では考えることができるのも、旅行の醍醐味のひとつだと思う。自分ワールドのなかだけに閉じこもって、そこで完結してしまう変わらない毎日から抜け出すことは、決して簡単じゃないけれど、潜在意識のなかで起こる刹那的な感情を丁寧に紡いで咀嚼していくことを繰り返せば、何か少しだけ自分と毎日が変わる気がする。一番知らない自分自身を見つけ出す。こんな単純明快なこと、分かってるフリして分かってない。もっとちゃんと愛さなきゃ。好きな人も自分自身も。今すごく意識が朦朧としたなかでこの文章を書いてる。まとまってくれない日本語だけを、忘れないうちに言語化したいなあっていう想いだけで、疲れた身体を絞ってます。主語と述語がなくても、乱れた文章の羅列から、単語だけを抜きとって、何かを心に感じることができる。そういうところが日本語の面白いところであって、美しいところだと思ったりする。久しぶりの旅行ですごく疲れたけれど、今の時間が永遠に流れたらいいなあって何度思ったか分からないくらい本当に幸せだった。なんでも、"はじめて"って緊張するけど、そんなことも忘れるくらい濃い時間だった。ずーっと微笑みあって寄り添いあっていたいなあ。音符を紡いでいたい。

喜怒哀楽÷4=?

 他人の感情に惑わされたくないって嘆きながらも、自分の刹那的な感情で他人を惑わしている自分自身に嫌気がさしてしまうことがある。こんな自分が嫌だなあって思いながらも、受け止めていくしか方法はなくて、できるだけ自分の負の感情は外に出さないように意識しているけれど、心の内側に入り込んでいけばいくほど、自分という存在が崩れていくような気がして、アンバランスな感情を平行に保つのがとても難しい。日常を生きていると、嬉しかったり、楽しかったり、悲しかったり、モヤモヤしたり、多種多様な感情たちで頭の中が埋め尽くされて忙しくなる。感情に数字的な概念は存在しなくて、日常生活で生じるすべての感情を、感情の数で割っても、絶対に平均的な感情というものは導き出せなくて、どうしても一番最後に残るのは、悲しい感情や切ない感情になってしまう。人生において、きっと悲しいことより、楽しいことのほうが何倍も多いのだろうけれど、やはり悲しい感情の強さは強烈で、心のなかに深い傷を刻むように、ずっと消えないで残っていくような気がする。「悲しいことも糧にして」って常套句みたいに言うけれど、僕はきっと立ち直れない。でも、こんなジリジリした気持ちのほんの少し上をギリギリにかすめて、何事もなかったかのように笑って生きていかないといけないことは分かってる。いつも悲しさのギリギリをかすめて精一杯本当の自分じゃない取り繕った笑顔でいるから、いつかはボロが出て、壊れてしまう。だから、そうならないためにも、子どものころのような、純粋で無垢で素直な心を、大人になっても、ずっと持ち続けていたいし、大切にしていきたいって本気で思う。日常で起こり得る些細なできごとや楽しかった感情に、素直に向きあって、楽しいときは楽しいって、嬉しいときは嬉しいって、辛いときは辛いって、自分にうそをつかないで生きていくことが、結果的に、幸せにつながっていくような気がする。

リレーのに“バトン”に代わる!日常生活のアイテム5選

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 突然ですが、皆さんは今までにリレーをしたことがありますでしょうか?

   リレーとは、バトンと呼ばれる縦長で筒状の道具を、第一走者から順番に第二走者、第三走者へと渡し繋いで行き、タイムを競う競技のこと。小中学生の運動会や体育祭で、クラス対抗リレーなどをしたことがある人も多いと思います。

 そんなリレーで、勝敗を分けると言っても過言ではないほど重要となってくるのは、テイクオーバーゾーン内で行われるバトンパスでしょう。テイクオーバーゾーン内で、いかに効率良くバトンを次の走者に受け繋いでいくかの技術が、最終的なタイムに大きく影響してきます。すなわち、足が遅いチームでも、バトンパスの技術に磨きがかかっていれば、上位にランクインすることも夢ではないということになります。

 

 というわけで今回は、日常生活にあるもので、筒状のバトンに代わり、なおかつ、素早いタイムを導き出すことができるアイテムを5つご紹介したいと思います。

 

それでは早速まいりましょう。

 

サランラップの芯

 いきなりバトンの代用品になり得るアイテムが出てきましたね。長さ、重さ、形状、握りやすさ、どこを切り取っても完璧です。リアルに現役のリレー選手でも、バトンを失くしてしまった場合、サランラップの芯で代用しているんじゃないか説まで浮上してきます。また、トイレットペーパーの芯でも代用可能なのでは?と思ったのですが、いかんせん短すぎるのがデメリットなので、候補からは外すことを余儀なくしました。学校でリレーがあって、バトン渡しの練習をしたいけど、バトンがないから出来ない!と嘆いているそこのあなたは、今すぐサランラップの芯を用意すると良いでしょう。

 

トーチ

 トーチ、すなわちたいまつのことです。ジャグリングやパフォーマンスなどで目にしたことのある人も多いと思います。なかでも、もっとも多くの人がトーチと聞いて始めに連想されるワードは“オリンピック”でしょう。ギリシャアテネから始まったオリンピック聖火は、オリンピックの象徴とも呼ばれる伝統的な儀式です。そんな歴史あるオリンピックの式典は、トーチを手に持ちリレーをすることで、いともたやすく実現させることが可能になります。トーチを手に持って走る姿はまるで、聖火ランナーに選ばれて大注目を浴びながら走る選手そのものです。人は注目を浴びているときほど、プレッシャーと比例して、良い結果に繋がるものです。ただし、火の取り扱いには十分ご注意してください。ケガをしてしまっては、リレーどころじゃなくなります。

 

竹 

 ひとたび、森林に足を運べば、そこには数えきれないほどの草木や大木が生い茂っています。ちなみに竹は学術的には大木の仲間に位置づけられるそうで、今や巷では、建材や内装材、工芸品や日用品など、多種多様な用途で利用されており、日常生活では欠かせないものとなっています。そこでやはりリレーをする際にも、竹を取り入れてみてはどうか?という僕の独自の判断により、今回候補に入れさせていただきました。乾燥した竹は十分な硬さと柔軟さを兼ね備えており、バトンの代替品としての条件はバッチリと言えるでしょう。日本古来から日用品として語り継がれてきた竹の魅力と哀愁を感じながら、バトンを繋いで走るもの姿は、ある種の青春と捉えることもできます。ぜひこの際に、日本の繊細さ、素晴らしさをを感じてみてはいかがでしょうか。

 

フランスパン 

 「食べ物で遊ぶな!」という声が遠くから聞こえてきそうですが、運動家や体育祭を思い出してみてください。競技種目のなかに“パン食い競争”がありましたよね。さらに、障害物競争では、小麦粉の中に飴を仕込ませて、口だけを頼りに飴を探し出すというダイナミックな競争が繰り広げられていました。そう考えると運動会に食べ物というものは必要不可欠な要因ということが分かっていただけると思います。なので、今回は、これを応用して、リレーでも食べ物を登場させてみようではないかという考えに結ぶ付き、結果的にフランスパンが導き出されました。

 フランスパンを食べたことのある人なら分かっていただけると思いますが、なんせ硬い。硬すぎます。おじいちゃんなら、軽く歯5本は持ってかれます。しかし、この硬さはリレーのバトンとしては武器になり得ます。朝時間ギリギリに起きて、食パン片手に通学している学生はマンガだけの世界しか目にすることがなかった人も、運動会では容易に、パンを握りしめて猛ダッシュする人の姿を飽きるくらい見ることができます。日常ではあまり見ること・体験することのできない姿を見て、皆さんも刺激を与えられてみてはいかがでしょうか。

 

ブーケ 

 ブーケ、つまり花束です。リレーのバトンの代わりにブーケを持って優雅に走るその男の子の姿に、きっと女子生徒たちはときめきを感じること間違いなしでしょう。ブーケを次の走者に渡して走るそのワンカットは、アイドルのPVに出てくるような清涼感や爽快感を漂わせることでしょう。また、アンカーの人が襷を巻いて、ブーケ片手に駆け出す男の子の姿は、彼女を振り向かせるため、雨の中ブーケを持って、猛ダッシュで彼女のもとに行く、まさに映画のワンシーンのような想像を掻き立てられます。

 さらに、ゴールテープが渦巻き、大歓声のなか、アンカーの人は手に持っているブーケを投げ、結構式で花嫁の人が行う“ブーケ・トス”を行えば、もう完全に映画化決定です。ブーケを受け取った女性は、アンカーの男の子と結ばれるという感じで映画は終わります。完全に次回作への伏線です。この時に流れるBGMはAerosmithの「I Don’t Want to Miss a Thing」でしょう。アンカーの人がゴールテープを破ったときのシーンがスローになって、この曲が流れている映像が浮かびます。

 

 

 

…いかがだったでしょうか。個人的には5つ目の“ブーケ”をバトン代わりに使用するのが、一番華があって良いと思いました。卒業写真のイベント欄にも、ブーケが載せられているだけで、なんだか楽しい気持ちになりますもんね。リレーのバトンは金属製の棒からブーケの時代へ。ついにそのときがやって来そうですね!生徒一人ひとりが華をというバトンを繋ぐ…。そして、それは瞬く間に甘酸っぱい恋のバトンへと変わる…。はい。話がだいぶ脱線しましたが、皆さんもリレーのバトンに代わるものを日常生活の中から探してみてはいかがでしょうか。もしかしたら、青春の1ページが再び開花するかも知れませんね。

 

 

 

ではでは!☆☆☆☆