Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

恋と初夏の涼風

 空が薄暗くなってきたころ、恋のモヤモヤに似た蒸し暑さ漂う空気を肌で感じながら、どこか知らない遠い場所で、野太く鳴り響く花火の音が、かすかに耳に飛び込んでくる。それに気を取られて、そっと窓のカーテンに手を伸ばす。僕がこの部屋にいるあいだに、別の場所では賑やかそうなお祭りが繰り広げられているみたいだ。てのひらで掴めそうなくらい小さな花火が瞼にうつる。その瞬間、僕は、鈴虫と虫よけスプレーのにおいを思い出しながら、“夏”を感じたような気がした。夜道を歩いていると、ふと前触れもなく訪れる蒸し暑い初夏の涼風は、刹那的に幼いころの記憶を呼び起こしてくれる。“夏”という季節を生まれてから二十数回は体験してきたけれど、すべてが一つひとつ違う夏の形だった。それはおそらく、そのとき置かれている環境や状況によって、心が変化しているからだろう。

 年齢を重ねるにつれて、心に空く穴は少しずつ大きくなっていく。穴の直径が大きくなるにつれて、本当の自分というものも失われていくような気さえする。そもそも本当の自分なんて存在しているようで存在していないのだけれど、感情が揺さぶられるとふと泣きたくなる時があるように、嬉しいときは笑っていられるように、そんな複雑な感情の種類のなかに、本当の自分というものが宿っているのだろう。心にぽっかり空いた穴の円周に比例して、そんな正体不明の本当の自分というものが徐々に小さくなってゆくのだけれど、なぜか夏という季節が巡るたびに、幼いころの記憶というものは、より深く鮮明に思い出すことができる。幼いころは、後先考えずにただひたすら“今”を見ていた。無邪気で素直で綺麗な心を持って今をひたすらに生きていた。もしかしたら本当の自分というものは、そこにあるのかもしれない。心に空いた穴はふさぐことは出来ないけれど、穴の輪郭をなぞるように、幼いころの初夏のメモリーは、そこに離れないようにぎゅっと抱き着いている。人間は本来、野性的な生き物だから、そんな叙情的な思考さえも持ち合わせているのかもね。年を取るにつれて何かをなくしてゆく生き物だけれど、そんな心切なくなるような夏の光のカケラは、ずっと心の手の届くところに置いて老いておきたい。生きていることを正当化する前に、すぐに心の引き出しから見つかるように。そこにずーっとどっぷり浸っていられるように。

 

ではでは!☆☆☆☆

もし空からお金が降ってきたらやりたいこと7選

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 「もし宝くじで10億円当たったら何したい?」誰もが一度は妄想したことのある議題だろう。貯金?海外旅行?高級車買う?一軒家購入?アメリカン・ドリームを夢に見る頭の中の妄想はとどまるところを知らずに、私たちの時間をいともたやすく奪っていきます。そんな、脳内がお花畑と化している最中、「当たるわけないよ。現実見なよ。」なんて言われたら、スマブラのキャラ“ドンキーコング”でBボタンから繰り広げられるジャイアントパンチを、とりあえず一発食らわせておきたいところです。

 とは言っても昨今では「お金」というものは、幸せになるためには必要不可欠であり、あって困ることはありません。幸福を追求する権利はみんな誰にでも持つことができ、人間誰しもがそのような欲を持っています。しかし、何をもって「幸せ」と感じるかは人それぞれであり、そこには善し悪しの概念は存在しません。「幸せ」の度合いの中に「お金」というものが介入すればするほど、本当の「幸せ」が見えづらくなるような気さえします。

 でもやはり、人間たるもの、「お金」は誰しもが手に入れたいものでしょう。じゃなければ、冒頭で取りあげた「宝くじで10億円当たったら何したい?」という議題は、巷でこんなにも妄想されることはないはずです。

 しかしこの議題は、すでに手元に10億円あることを前提として、そこから何をしたいのかを問いかけています。いや、そうじゃない。もっと夢があって現実味のない話をしたい。仮にドラえもんがいるとして、もしもボックスを貸してもらえるとしたら、僕は「もしも宝くじで10億円当たったら…。」じゃなくて、「もしも空から大量のお金が降ってきたら…。」と電話越しに呟きます。だってどうせなら、自分だけHAPPYになるんじゃなくて、みんなHAPPYでいたいじゃないですか。

ということで、前置きが長くなりましたが、「もし空からお金が降ってきたら」何をするか。自分なりに考えましたので、もし空からお金が降ってきたときは、参考にしてみると良いかもしれません。ではまいります。

 

虫取り網を振り回す

  さあ童心に戻って周りの目など気にせずに、虫取り網を思う存分振り回そうではありませんか。しかし、くれぐれも周りの人たちには細心の注意を払いましょう。そして忘れてはいけないのが虫取りかご。必ず虫取り網とセットで使用しましょう。確保したマネーは逃げないように早く虫取りかごへ入れてあげてください。この日だけは虫取りかごがATMの役目を果たしてくれます。また、虫取りかごを日常生活にも取り入れて財布として使うのもアリなのではないでしょうか。首からぶら下げておくことで、どこかに忘れたり失くしたりする心配もありません。お金を増やしたいと思ったらヘビの抜け殻でも入れておきましょう。

 

掃除機で吸う

  虫取り網でも十分な資金収集ができます。しかし吸い込む威力には勝てません。お金が降っている状況下において、掃除機というのは超強力な武器となり得ます。空中を舞うお札を吸い込むのもよし、床に落ちているお札を吸い込むのもよし。そう、掃除機を使えば可能性は無限大に広がります。ちなみに掃除機は、吸引力が凄まじいで有名なダイソンにしましょう。これで掃除機を抱えたライバルに勝てるはずです。

 

空を見上げてPVの主人公になる

  アーティストやバンドのPVを見ていると、よく目にする光景ってありますよね。遠い空を見上げて何か物思いにふけっている光景や、太陽に手をかざしている光景、恋愛ソングだと泣いている女の子、何かを思い出して咄嗟に夜の道を駆け出す女の子、挙げればキリがないです。そして今、目の前には無数のお金が空を舞っています。これはもう、宙を舞うお金を見渡したあと、ゆっくりと右手の掌を差し出して、手に舞い込んだお金を見つめて、黄昏ましょう。そのあとは、お金をギュッと握りしめるのもよし、たんぽぽに息を吹きかけるように、そっとお札を舞い散らせるのもよし。あなた次第であなただけのPVを完成させちゃいましょう。

 

バスタブを用意して、そこに札束を敷き詰めてセレブになる

  “セレブ”という言葉から皆さんは何を連想されるでしょうか?パッと思いつくのは、お札が一杯に散らされたバスタブで、万札を扇子のように重ねて、優雅に扇ぎながら幸福に満ち溢れている人の姿です。「これであなたもセレブな生活に!」みたいなキャッチコピーの背景に、札束風呂に入って満面の笑みを浮かべている人の画像が起用されている誇大広告を見たことのある人も多いと思います。そんな夢みたいなことは、宝くじを当てない限り実現させることは到底不可能に近いです。しかし、札束が降り注ぐ空の下では、そんなセレブ気分をいとも容易く感じることができます。バスタブを持ってくるだけで、自動的に札束が降り積もっていき、気が付いたら札束風呂ができあがっています。その後は、お風呂にダイブするのもよし、扇子を作ってセレブリティを感じるのもよし、写真を撮ってインスタに投稿するのもよし。さあ、これであなたもセレブな生活に。

 

路上ライブをする

  ライブという空間は、音楽だけでなく、音響や照明、演出など様々な要素が融合しあって成り立っています。つまり音楽以外の副次的要因が必要不可欠と言っても過言ではないのです。そこで、お金が降り注ぐ空をバックに、音を奏でてしまいましょう。きっと、実際のライブでいうところの、紙吹雪金・銀テープと同じように機能してくれるはずです。ちなみに演奏する楽曲は、松平健さんの「マツケンサンバ」で決まりです。オーディエンスのみんなで踊り明かしちゃいましょう。またサビの「♪恋せよ アミーゴ 踊ろうセニョリータ 眠りさえ忘れて 踊り明かそう」の部分は、ライブアレンジを加えて「♪恋せよ アミーゴ 踊ろうセニョリータ お金さえ忘れて 踊り明かそう」と歌詞を変えて歌うと良いでしょう。こんな時は、踊って楽しんだもん勝ちです。お金が降る注ぐ街で、心躍るような愉快で爽快なサンバが繰り広げられます。

 

慈善団体に寄付する

  お金というものを手に入れたからには、何か人のためになるようなことがしたいという良心が働くのは、誰もが心のどこかに必ず持ち合わせているものです。しかし、最近では芸能人たちが多額の金額を寄付すれば、「売名目的か?」など、インターネット上で批判が起きたりして、僕はそれに対して偽善でも売名目的でも、寄付という行為自体は立派な行動であると思うので、全然良いと思うし、むしろ批判されることを先回りして、自ら「売名目的です!」と率直に言い放ったほうが良いんじゃないかと思うところもあったりと、なんとも複雑な気分です。お金に色はないので、黒くても白くても、その行動を尊重したいなあ。

 

YouTubeに投稿する

  近年流行りのYouTuberに便乗して、空からお金が降っている様子を撮影して、YouTubeに投稿しちゃいましょう。YouTubeに動画を投稿することで、空から降ってくるお金を手に入れて、さらにYouTube動画再生回数広告収入でお金を稼ぐことができます。まさに勝利のスパイラルです。夢の具現化とはまさにこのことでしょう。ちなみに投稿する動画のタイトルは「【悲劇】空からお金が降ってきた!!」で決定です。

 

 

 

…いかがだったでしょうか。空からお金が降ってくると考えただけで、夢が無限大に広がりますね。僕はやはり初心に戻って虫取り網を勢いよく振り回したいです。みなさんも、もしお金が空から舞い降りてきたときのことを見据えて、色々な策を練っておいても良いかもしれません。僕はとりあえず虫取り網と虫取りかごを用意しておきます。

 

ではでは!★★★★

風船

 無数に立ち並ぶビルの街並みや、地下鉄の駅のホームのにおい、暑い季節が間近に迫って期待と不安に胸を躍らせる6月。儚く刹那的に、何度も“あの頃”を思い出しては、らせん階段のようにスルッと頭から抜けてゆく。悲しい思い出も、楽しい思い出もぜんぶ、年齢を重ねるたびに昇華してゆく。昇華しては抜けていく。その繰り返し。においと景色。この二つは、遠い過去の記憶を呼び覚ますための重要なアイテムで、それはふとした瞬間に降りてくる。その瞬間は懐かしさと同時に楽しいという感情も湧き出てくる。ああこの瞬間のために生きてきたんだなあって感じることさえあったりする。悲しい記憶も楽しい記憶もぜんぶ、これから先生きていくなかで降りてくるなら、少しでも生きてゆく意味がある気がする。
 においと景色から舞い降りてくる懐かしさに出会うためには、子どもの頃のような野性的な心や好奇心が大切だと思う。でも大きくなるにつれて、そういう類のものは、少しづつ削ぎ落とされていく。おそらく自分のなかで育まれた世間体や社会性という、変えようのない事実に踊らされているだけ。でも否定はしない。なぜなら、否定をすれば自分という存在までも否定しているような気がするから。こんな感覚はいつまで経っても腑に落ちなくて、ふわふわと宙を舞う風船のようなものが、ゆらゆらと風に靡かれながら、行き場もなく上空へ上がっていく。その風船は宇宙空間にたどり着いても決して割れることはなくて、ずっと答えが出ないままゆらゆらと“どこか”へ進んでいく。

 こんな感覚を身にまとって、二十数年間生きてきたけれど、やはり答えは出なくて、モヤモヤしたままで、それでも僕のために世間は待ってくれなくて、当たり前のように生活は続いてゆく。ある意味狂気に満ち溢れているような、そんな気さえする。身の回りの人たちは、何を考えながら生きているんだろう、どんなビジョンを描きながら生きているんだろう。最近は、意味もなく考えたりする。もちろんすべての人に人生があってドラマがある。正解不正解の概念なんて存在しないけれど、だからこそ「こんな生き方もあるのかぁ」って思ったりして、それが面白く感じたりする。まさに好奇心が生まれる瞬間である。人間、面白いことや刺激がなくても生きていけるけれど、あったほうが何倍も楽しいよね。踊らされないで踊りたい。生かされないで生きたい。

旅行


 いつも見ている景色なのに、今日はどこか違って見えた。旅から帰ってきた日は、身体に絡まる隅々の細胞たちが言うことを聞いてくれなくて、摩耗し切った肉体に残るのは猛烈な疲れと眠気しかない。次々と目の前に現れる見慣れない風景に、日常では味わうことのない唯ならぬ刺激を受けて、身体が良い意味で悲鳴を上げている。ちょっとだけ、いつもとは違う自分に出会えた気がするから、どこか遠くの場所に旅をするのはすごく好きだ。クリームパスタに添えるパセリのような、休憩時間に嗜むコーヒーブレイクのような、ふとした何気ない瞬間にするキスのような。こんなちょっぴりした気持ちよさみたいなものが、少しずつ重なって非日常に変わる。変わらない生活に光が射し込む。生活は変わらないから、また日常に戻るのだけれど、旅をした思い出は、スマホで撮った写真では語ることのできないくらい、心の奥底でずーっと光を放っている。
 旅先でいつも思うことがある。それは、ここにいる人たちは私たちと同じように生活をしていて、ここで生きているってこと。当たり前だけれど、僕にとっては当たり前じゃないように感じる。もちろん、旅をしているのも当たり前じゃないし、こうして考えを巡らせることが出来るのも当たり前じゃない。突き詰めていけば、すべてが当たり前じゃなくなる。ここにいる人たちは何を考えて毎日を生きているのだろうとか、今すれ違った人はどんな人生を歩んできたのだろうとか、こんなこと考えても、どうしようもないのだけれど、何か無意識に感じることがあって、刺激に満ち溢れた頭のなかに、ポツンと答えのない問いだけが現れる。こうして普段あまり考えないようなことを、旅先では考えることができるのも、旅行の醍醐味のひとつだと思う。自分ワールドのなかだけに閉じこもって、そこで完結してしまう変わらない毎日から抜け出すことは、決して簡単じゃないけれど、潜在意識のなかで起こる刹那的な感情を丁寧に紡いで咀嚼していくことを繰り返せば、何か少しだけ自分と毎日が変わる気がする。一番知らない自分自身を見つけ出す。こんな単純明快なこと、分かってるフリして分かってない。もっとちゃんと愛さなきゃ。好きな人も自分自身も。今すごく意識が朦朧としたなかでこの文章を書いてる。まとまってくれない日本語だけを、忘れないうちに言語化したいなあっていう想いだけで、疲れた身体を絞ってます。主語と述語がなくても、乱れた文章の羅列から、単語だけを抜きとって、何かを心に感じることができる。そういうところが日本語の面白いところであって、美しいところだと思ったりする。久しぶりの旅行ですごく疲れたけれど、今の時間が永遠に流れたらいいなあって何度思ったか分からないくらい本当に幸せだった。なんでも、"はじめて"って緊張するけど、そんなことも忘れるくらい濃い時間だった。ずーっと微笑みあって寄り添いあっていたいなあ。音符を紡いでいたい。

喜怒哀楽÷4=?

 他人の感情に惑わされたくないって嘆きながらも、自分の刹那的な感情で他人を惑わしている自分自身に嫌気がさしてしまうことがある。こんな自分が嫌だなあって思いながらも、受け止めていくしか方法はなくて、できるだけ自分の負の感情は外に出さないように意識しているけれど、心の内側に入り込んでいけばいくほど、自分という存在が崩れていくような気がして、アンバランスな感情を平行に保つのがとても難しい。日常を生きていると、嬉しかったり、楽しかったり、悲しかったり、モヤモヤしたり、多種多様な感情たちで頭の中が埋め尽くされて忙しくなる。感情に数字的な概念は存在しなくて、日常生活で生じるすべての感情を、感情の数で割っても、絶対に平均的な感情というものは導き出せなくて、どうしても一番最後に残るのは、悲しい感情や切ない感情になってしまう。人生において、きっと悲しいことより、楽しいことのほうが何倍も多いのだろうけれど、やはり悲しい感情の強さは強烈で、心のなかに深い傷を刻むように、ずっと消えないで残っていくような気がする。「悲しいことも糧にして」って常套句みたいに言うけれど、僕はきっと立ち直れない。でも、こんなジリジリした気持ちのほんの少し上をギリギリにかすめて、何事もなかったかのように笑って生きていかないといけないことは分かってる。いつも悲しさのギリギリをかすめて精一杯本当の自分じゃない取り繕った笑顔でいるから、いつかはボロが出て、壊れてしまう。だから、そうならないためにも、子どものころのような、純粋で無垢で素直な心を、大人になっても、ずっと持ち続けていたいし、大切にしていきたいって本気で思う。日常で起こり得る些細なできごとや楽しかった感情に、素直に向きあって、楽しいときは楽しいって、嬉しいときは嬉しいって、辛いときは辛いって、自分にうそをつかないで生きていくことが、結果的に、幸せにつながっていくような気がする。