Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

流しそうめんの正体を僕らは知ってる

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某バンドの某曲にこんな歌詞がある。

 

流しそうめんの正体を僕らは知ってる

 

流しそうめんといえば、夏の風物詩のひとつである。竹を半分に切ったものを並べて、そこに水とそうめんを流して楽しむ夏の大々的なイベントだ。

 

しかし、私たちは「流しそうめん」と当たり前のように言うけれど、果たしてその言葉の本質をきちんと捉えて使っているのだろうか?こういう命題は、ある種の常識的な物事に対するアンチテーゼ的なものを含んでいるともいえる。

 

そもそもこの「流しそうめん」という言葉は、「折りたたむ」+「傘」=「折りたたみ傘」、「話す」+「声」=「話し声」といったような、複合名詞の一種であり、「動詞」+「名詞」の組み合わせによって作られている。すなわち「流す」+「そうめん」=「流しそうめん」である。

 

流しそうめん」の言葉の成り立ちを理解したところで、物事の本質を理解したとは言い難いので、今回は歌詞と一緒にこの「流しそうめん」について深く堀っていこう。

 

歌詞の中では、流れるそうめんに対してこのように歌っている。

 

ゴールなんてわからないままで いつまで どこまで

 

そう、はたからみれば楽しく流れているそうめんも、行きつく先はどこなのか分からないのだ。あるがままに、なすがままに、私たち人間によって、竹の上に水と一緒に放り込まれて、ただただ流されているに過ぎないのだ。

 

その姿はまさに、自分の意志ではどうすることもできないまま、世間やこうあるべきだという価値観に流されている者たち、見方を変えれば社会の縮図ともいえるべき事態がそこにあるということに気づかされる。もはやこれは、“流し”そうめんではない、“流され”そうめんなのだ。

 

もし僕がそうめんなら、どう抗うのだろう?

 

そうめんにとって水は、人間でいう空気だ。

 

もしかしたら、一緒に流されている水は、そうめんにとってみれば、かけがえのないパートナーなのかもしれない。当たり前過ぎて、そこにある幸せに気付かないのと似た類のやつだ。

 

こう考えると「抗ってみよう」という考え方自体が、もしかしたら間違っているのかもしれない。

 

そしてサビではこう歌われる

 

時間と距離を飛び越えて 君のその手からここまで来た

 

あんなに流されることが辛かったけれど、誰かの手によってそうめんが掬われて、めんつゆと一緒に絡めて食べてもらうことができた。そうめんにとっては本望であろう。

 

歌詞の中の「君」とは、そうめんのパートナーである「水」のことかもしれないし、そうめんを掬っている私たち人間のことかもしれない。

 

私たち人間によって、そうめんは流されていると思っていたけれど、ふと人間に掬われて救われたら、何だか嬉しい気持ちになる。嫌いだけど、好き。好きだけど、嫌い。こんな相反する2つの感情がうまく折り重なったような、そんなことを想像させる歌詞である。

 

もしそうめんに心があると思うと、一本残らず、掬って食べてあげたいと心から思う。キンキンに冷えたそうめんとめんつゆを絡ませて口の中をヒンヤリパレードにしたい。

 

ひとりにせずに掬えるように 旅立った唄 間に合うように

 

2番のサビでもこう歌われている。ここまで来るともう本当に流しそうめんのことを歌っているのかもしれない、とさえ思ってくる。

 

「旅立った唄」―そう、これは紛れもなくガッツリと、口の中に放り込んだそうめんのことだ。リズムをかき鳴らすそうめん。思い出を描くそうめん。記憶に刻むそうめん。なんて美しんだろう。そうめん。

 

そして楽曲の最後にはこう締めくくられている

 

飛んでいけ 君の空まで 生まれた全ての力で輝け

 

「生まれた全ての力」―そう、これはそうめんが私たちの元に届くまでの過程のこと。それはつまり「生きる」ということ。小麦粉、塩、水から、茹でたり、もしくは炒めたり焼いたりすることもあるだろう。そうめんがそうめんとして一番輝ける瞬間を見れたのなら、それはもう幸せそのものだ。もしかしたら、流しそうめんの瞬間が的確にそれを体現しているのかもしれない。

 

もう竹の先に設置してある桶の中に、そうめんは一本たりとも流さない。

 

だってそれはそうめんの本望じゃないから。

 

ゴールが分からないまま迷子にならないように、私たちでちゃんとそうめんを掬ってあげることができる。

 

何だか少しだけ流しそうめんの正体が分かったような気がします。

 

透明な白で包まれたキラキラと輝いたそうめんを食べよう。

 

夏。

 

すごく奥が深い気がする飲み会というイベント

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僕はたばこのにおいも好きじゃないし、お酒も全く飲めない。

 

飲み会というワードは聞こえはなんだかすごく楽しそうな雰囲気を醸し出しているけど、ふたを開けてみると、そこには人生のすべてが詰まっている。組織のなかの、小さくて、大きくもあるコミュニティのなかの、暗黙のルールが敷かれたうえでの、話し合い。

 

フラットなようでフラットじゃない言葉の交わし合い。多くの人は、喫煙所の会話や雑談で、その人となりを知って、社会で生きていく術を身に付けていくらしい。乾杯のときは、若い人はグラスを先輩よりも下に捧げるらしいとか。飲めと言われたら断らないほうがいいらしいとか。こんなの学校じゃ教えてくれなかった。

 

傍から見れば楽しそうに見える飲み会も、その輪の中に入ってみれば、たちまち見えない権力と肩書きと年齢とプレッシャーが、暗黙のルールの中で無造作におこなわれていることの怖さを知る。

 

人はお酒が入ると変わるっていうけれど、それは「変わる」じゃなくて、自ら「変えている」ような気さえする。普段は見えない何かに押さえつけられて見える人でも、お酒という魔力に引きずられて、ビジネスマンという塗装が剥がれて、「素」が見えたりする。

 

声のボリュームとテンションとたばこの煙と店内に流れる音楽がすべて絡まったとき、ああ僕は生きているんだなあと感じる。おそらく働く人たちは、この瞬間を求めて、日々という、ある意味狂気に満ちた普通の日常を送っているんだと思う。

 

学生の頃の放課後の遊びや、大学のサークルの飲み会とかいったものとは、格段にレベルが違うと感じるのも、何か固定観念の悪魔的なものに憑りつかれているゆえの、心から湧き出てくるものだと感じる。

 

目の前で先輩のグラスが空になれば、躊躇う余裕もなくビールや日本酒を注文していく姿を見るのは、お酒がまったく飲めない僕からしてみれば到底規格外の行動のように見える。

 

IT系の企業に勤めている人たちの飲み会にこれまで何度か参加してきたけれど、彼らはいい意味で完全に狂っている。本当にいい意味で。でも、やっぱりこんなにも頭のネジが外れてしまったように飲むのは、日々の仕事というものに疲労困憊しているゆえの、大きなストレス発散や気晴らし的なものだとしたら、何だか少し悲しくなってくる。

 

僕みたいな、いつもぬるま湯に浸かっているような人間からしてみれば、そこに「憧れ」の4文字は見当たらないっていうと大袈裟だけど、それはきっと日常のなかの「金曜日の飲み」という、ほんのワンシーンを見ているから、そう思うだけなのであって、先輩にはたくさんお世話になってきたし、色んなことを勉強させてもらったから、とても感謝してもしきれない。

 

目の前のことに真摯に向き合う姿勢はすごいし、尊敬できる。っていうと何だか、綺麗ごとを並べて大きくカバーしているみたいだけど、心からそう思う。

 

結局のところ、ビジネスという世界では、結果を出して利益を出している人間が偉いということ。偉いから威張って良い。なんか理性を失って欲を剝き出しにしているみたいだ。シビア?この世界は繊細でシビアなの?分からない。ビビビーン

 

いつも残業ばっかりで、上司からは詰められて、たくさんの書類を落として、「お疲れ様です」を言って、帰り道に人生に迷って涙を流して、でも繰り返していくうちに少しずつ認められるようになって、結果も出して、ある日の飲みの席でビール片手に同僚や上司と肩並べて笑って。このような類の広告をよく見る。こういうストーリーのある広告はものすごく惹かれる。なんでだろう?こんなにも違和感を抱いていたのに。

 

あるべき姿とか、正解とかはないはずなのに、どこか感動さえ覚えている自分が心のなかにいる。お酒もたばこも趣味も恋愛も仕事も夜の街も終電も、全部力尽きるまで本気を出してる日常が好きだ。この狂ったような当たり前の日常が好きだ。

 

ああ、これが働くということかって。体調が悪くなってしまって休職した会社で、もがき苦しみながら日々を送っていたことを思い出した。あの頃と同じ場所で。

 

やっぱり頭のネジ外れているほうが生きてるって感じするような。外れたネジはきっと未来を支えてくれる大きな糧や宝物になるような気がする。

 

僕はなにを書いているんだろう。

 

ぐるぐるぐるぐる。

 

グルコサミン。

『BUMP OF CHICKEN aurora ark TOUR in NAGOYA DOME 9/21.22』に参戦したけれど、マボロシだったのかもしれない

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人生のルールブックには載っていない感情に飲み込まれて、心の辞書でこの感情を引いてみても、どこにも見当たらないような、そんな気がした名古屋ドーム2days。

 

思い返してみればいつもそうだ。BUMPのライブに参戦するたび、そこで湧き出てくる感情はひとつひとつちがっていて、だからこそ同じライブは二度と見ることができないのだろうと思う。ひとつひとつのライブがかけがえのない瞬間だから、自分の感情をさらけ出すように最大公約数的に、分散と発散できたら、それはいつか幸せや楽しかった思い出に変わるような気がする。

 

いつもBUMPのライブに参戦するとIQが2になり、「最高」「ヤバい」といった語彙力皆無の妖怪と化するので、そんな言葉たちをどうにかして因数分解して、自分の感情の内側を覗いてみたくなる。

 

とくに刹那的に感じる感情は、何度も頭の中に降りてくるものではなくて、何かを見たり嗅いだりしたときに、小さい頃の記憶がフラッシュバックするときみたいに、脳内に現れてはスルリとすぐに抜け出していく。人間は忘れる生き物だから、その時に感じたことはできるだけ残しておきたいと思ったりする。絵でも言葉でも音でも身体でも。

 

名古屋ドームに訪れたのは、2016年におこなわれたBFLYツアー以来だった。あれから約3年。長い?短い?分からない。地下鉄から降りて、名古屋ドームに向かうまでの道中に、今回のライブを楽しみにしながらも、同時にBFLYツアーのことも色々と思い出していた。「ああこの階段上ったなあ。」「BFLYツアーではここにフォトブースがあったなあ。」とか、自ら思い出さなくても、目の前に広がる景色が無意識的に記憶を思い出させてくれた。過去とコネクション。イマジネーションとの交流。

 

1日目も2日目も天気はあいにくの曇りや雨だったけれど、みんな同じ空の下で、同じ虹を待っているような気がして、心はとても晴れ模様だった。

 

BUMPの音楽を聴きにくるというたった一つの目的を持った大勢の人たちが、ここナゴヤドームに集まっているということのヤバさは、何度ライブに参戦しても、まだまだ到底計り知れない。

 

開場は16時、開演は18時だ。僕はナゴヤドームに行くまでそれほど時間を要さなかったため、21日22日ともに、開場ギリギリに現地に到着した。1日目はグッズを購入して、2日目はイオンでスガキヤラーメンなどを食べたりして、開演までの時間を噛みしめていた。

 

イオンですれ違うほとんどの人たちがツアーTシャツを着ているという、この非日常的な一瞬一瞬が新しい。そして専門店街では、BUMPの曲が店内BGMとして鳴り響いているところがいくつかあった。もうこれはイオンが完全にBUMP色に染まっている。通り過ぎる人たちもバンプ、店内BGMもバンプ、心の中もバンプ。普段ラジオやテレビとかでバンプの曲が流れてきたときすら、テンションが上がるのに、いつもどおりの日常のなかを、これでもかってくらいBUMP色に染められると、人間って逆に冷静でいられる。憧れの人をいざ目の前にすると、緊張して何もしゃべれなくなるあの現象みたいだ。

 

イオンと物販とドーム前を行ったり来たりしていると、時間は待ってくれなくて、あっという間に開演時間になる。少しずつ日も沈み始めてあたりも暗くなってくる時間帯だ。開演30分前の17時30分くらいにチケット片手に、ナゴヤドームへ足を進める。スタッフさんにチケットを渡し、切り取り線で切ってもらい、そしてもう一人のスタッフさんからPIXMOBを受け取る。

 

手元のチケットを何度も確認して、自分の席があるゲートに向かう。そしてゲート近くになると、微かにライブ会場の光が漏れて、「ああ、本当にライブに来たんだ。」と心のスイッチが完全にONになる。チケットと照らし合わせてたちまちゲートをくぐれば、そこには感情がキャリーオーバーするような景色が広がっていた。ちなみに1日目はスタンド席、2日目はアリーナ席だった。席に着くと、ソワソワして心がまったく落ち着かない。気付けば開演まで10分を切っていた。ジャンル分けできないドキドキ。早くなる心臓の鼓動。昂る感情。

 

そしてついに開演時間の18時になった。会場内に流れる洋楽たちはまだ当たり前のように鳴り響いている。おそらくこんなも落ち着かない様子で、きらきらした洋楽を聴くのは、BUMPのライブのときくらいだろう。するとすぐにチャマのツイートがスマホを光らせる。「ナゴヤドーム行ってきます!」ライブ前のチャマツイートはもはや恒例行事となっている。このツイートを見ると、緊張していた鼓動がどこか少し和らぐ気がする。

 

ドーム内が暗転する。立ち上がる客席。沸き起こる拍手。遂にライブがスタートする。

 


―aurora arc―

ステージの大きなスクリーンにオーロラが映し出される。おそらく、メンバーがイエローナイフで撮影した映像と思われる。4人が寒そうな雪道に並んで手を大きく振っていた映像が印象に残っている。そして、舞台裏で4人が円陣を組んでいる様子も生中継されていた。曲の途中からメンバーがステージに上がってくる。そして2分くらいの「aurora arc」が終わると、一斉に手に装着していたPIXMOBが輝きだした。それはオーロラみたいに色鮮やかに光っていた。藤くんは精一杯髙くギターを掲げていた。

 

―Aurora―

モヤモヤした気持ちもすべて吹き飛ぶようなAuroraのイントロが流れ出した。「もうきっと多分大丈夫」不安はいつでも頭の中に渦巻いているけれど、すべて払拭することはできないから、覚束ない気持ちでも全然大丈夫。すべてを肯定してくれたような気がした。2日目は「手紙」を「お手紙」と、やさしい表現に変えて歌っていた。そしてラストサビでは、大量のキラキラ輝いた銀テープが会場内を埋め尽くした。

 

―虹を待つ人―

聴きなれたサウンドに、テンションが上がる準備ができていた。ライブの定番曲になってる虹を待つ人は、やはり何度聴いても心のボルテージを最大限にまで引きあげてくれる。間奏部分では藤くんが「こんばんは、バンプオブチキンです!会いたかったぜ名古屋ー!!」と力強い声で呼びかけてくれる。サビの「ウォーウウォーウウォーウウォー!」と叫ぶところで、拳を掲げながら、精一杯喉を震わせて声を出す。ライブに参戦している人と一体となってライブを作り上げている感じがしてすごく好きだ。

 

―天体観測―

「「イマ」というほうき星 君と二人追いかけてた」から始まる天体観測。ライブに参戦するたびに聴いているけど、聴いた回数なんて関係なくて、一回一回の天体観測の演奏がずっと美しくてかけがえのない瞬間。どうしても過去のライブで聴いた天体観測と重ねてしまいそうになるけど、藤くんは毎回毎回わずかに歌詞を変えたり、CD音源とは違うキーで歌ったりする。だから、毎回のライブで聴く天体観測は、どこを切り取っても同じものはなくて、それぞれが唯一無二の作品として完成している気がする。

 

―月虹― ―シリウス

1日目は月虹、2日目はシリウス。どちらの楽曲もイントロが革命的にカッコ良すぎる。またBUMPのライブでは滅多にない炎が吹き出る演出があった。2日はアリーナでステージからも近かったため、思った以上に暑くて驚いた。暑すぎて、演奏が終わるとチャーハンになってしまっているのではないかとすら思った。

 

プラネタリウム― ―車輪の唄―

プラネタリウムはWILLPOLISツアーの島で聴いた気がする。一方、車輪の唄はおそらくBFLYツアー以来だ。プラネタリウムはきれいな星空をイメージしたように青色のPIXMOBが会場を埋め尽くしていて、とても幻想的な景色だった。そして車輪の唄はオレンジ色で埋め尽くされて、何か遠い故郷の思い出を彷彿とさせるような、そんな感情を抱いていた。どちらの楽曲も、聴きながら懐かしさと真新しさを感じていた。

 

―Butterfly―

「なんか生きるのだるいなぁとかつらいなぁって思っている人も、次の曲で踊ろう!」というチャマのMCのあとに演奏されたのがButterfly。京セラドーム公演の時も、Butterflyが演奏される前に同じようなことを言っていた。良い意味でチャマらしくないMCだったれど、だからこそ胸に響いたような気がした。「なんとなく悟り」「やり方を上手に出来ている」の部分は、微妙にアレンジを加えた歌い方をしていた。今回のButterflyは、BFLYツアーの日産スタジアム公演で演奏していたロングバージョンのアウトロで、ラストのコーラス部分ではキラキラした色とりどりのテープが龍のように会場をひらひらと舞っていた。空に靡くテープに手を伸ばして取ろうとしている姿は、風船を木にひっかけてしまって、精一杯手を伸ばして取ろうとしている幼少期の子どもみたいだった。

 

―記念撮影―

前回のPATHFINDERツアーでたくさん聴いた曲だ。にも関わらず、ライブで聴くたびに一味も二味も違う側面を見せてくれる。だからライブで聴くたびに、その曲の印象がガラリと変わって、ありとあらゆる楽しみ方を私たちに提供してくれる。なんかこう、細かいアレンジや歌い方を少し変えるだけで、こんなにも曲のイメージや印象が変わるのはすごく不思議で面白い。

 

―話がしたいよ―

「もうこの曲かぁ...。」曲を演奏する前にボソッとこう呟く藤くん。僕も同じことを思っていた。早い、早すぎる。楽しい時間はすぐ過ぎるっていうけれど、いくらなんでも一瞬過ぎる。絶対に時計の長針を妖怪か誰かがいたずらしているに違いない。秋を彷彿とさせるように、PIXMOBがオレンジ色に輝く。話がしたいよ、この曲個人的にめちゃくちゃ好きだ。「君が好きな匂い まだ覚えてるよ 忘れたくないよ」こんな風に歌詞を変えていた。この曲を生で聴けたこと、忘れたくない。

 

―ダイヤモンド― ―真っ赤な空を見ただろうか―

メンバーはステージから離れた島に移動する。1日目はダイヤモンド、2日目は真っ赤な空を見ただろうかが演奏された。アルバムを引っ提げたツアーで演奏される過去曲を聴いているときは、すごく不思議な感覚に陥る。多分その感覚は「え!ここでこの曲やるんだ!」「うわー!久しぶりに聴いた」「懐かしい!」とか、あらゆる感情が交錯した結果、ふわふわとした不思議な感覚を作り出しているのだと思う。真っ赤な空を見ただろうかは、Aメロの途中までは、藤くんのアレンジを加えた歌い方で、今から何かが始まる予感の心を上手に弄んでくれた。

 

―リボン―

PATHFINDERツアーではリボンは、いつも最後に演奏していた曲だ。だから、セットリストの中盤でリボンを演奏することに、良い意味の違和感を覚えた。ラストサビに差し掛かると、藤くんがハンドマイクに切り替え、「赤い星並べてどこまも行くんだ」の歌詞の部分で、演奏している4人の方を見ながら笑顔で歌っていたのがとても印象的だった。4人がここまでバンドを続けることができた意味と、これからもこの4人で音楽をやっていく覚悟を、この一瞬で少し垣間見えた気がした。あと、1日目は島でデビュー曲のダイヤモンドと結成20周年のラストに作られた曲であるリボンを演奏したのは、何か深い意味があると思っている。しかも島というお客さんが近い場所で見れるところで演奏したというのも何か感慨深いものがある。

 

―望遠のマーチ―

島での演奏が終わり、再び会場内にaurora arcが流れ始める。曲が終わると、ステージの背景が雪山のように白くなり、イントロが流れ始める。僕は一瞬「ん?グッドラック」と思ってしまったが、ここで演奏されたのは望遠のマーチだ。ステージの背景に大きく歌詞が表示される。ライブで聴いたら絶対に盛り上がること間違いないだろうなぁと思っていた曲だ。サビの「いこうよ」の部分は全力で合唱したくなる。2番Aメロの「かっこいい事言えたらいいよなぁ!?」と語気を強めて歌っていたのが、胸ぐらをつかまれたように強く胸に響く。そして、2番のサビ終わりには「この世の中に色んな音楽があるけれど、僕たちを選んでくれてありがとう。」的なことを藤くんが言う。そして、背景に大きく歌詞が出ているのにも関わらず、それをガン無視して歌詞を変えて「繰り返す明日だって 明日だって叫んでる」と歌う。おそらく藤くんは、その場で感じたインスピレーションや情動を、音楽と歌詞に乗せて即興的に歌っているのだと思う。こう考えると、ライブ1秒1秒の音楽や言葉や言動や空気や空間がすべて意味をなしているような気さえする。

 

―アリア― ―GO―

1日目はアリア、2日目はGOを披露。アリアでは背景に、水の妖精たちが住んでいるような教会的な建築物が大きく映し出されていた。叙情的な雰囲気に包まれたアリアは、キラキラしたメロディに重なるように藤くんの歌声が密着して、演出とともにとても綺麗な生歌だった。一方2日目に披露されたGOは、イントロの冒頭に「慰めの言葉なんて 心に届かない風 つまづいても迷っても 隣で歌うから」と歌詞を付け加えて歌っていた。すごく素敵な歌詞で、とても印象に残っていたから、あとで調べると、この歌詞は「ふしぎの海のナディア」というアニメに起用されていたエンディングテーマ曲だそう。ちなみに森口美穂さんが歌っている「Yes,I Will」という楽曲。家に帰ってすぐにYouTubeで原曲を聴いたけれど、森口さんの歌声がすごく透き通っていて、一目惚れ的に好きになってしまった。あれからずっとこの歌を口ずさんでいる。

 

―Spica―

「一生今日が続いてほしい...」藤くんが曲を演奏する前にこう呟く。そんなこと言われたらこっちだって寂しくなる。SpicaはPATHFINDERツアーファイナルでサプライズとして、一番最後にメンバーにも聴かせたことのない曲を藤くんが弾き語っていたのが強く脳内に残っている。だから今回のツアーで完成されたSpicaを聴くことができて、なにかこう自分の子どもの成長を見守ってあげられたような気持ちで聴くことができた。背景には樹齢1000年は超えているであろう大きな樹木が映し出されていた。木漏れ日が差し込んで、そこには森の妖精が住んでいるような、そんな雰囲気を醸し出していた。しっとりとしてて、根と芯があって、力強かった。

 

―ray―

rayはここ数年でライブの定番曲と化した歌だ。やはりイントロを聴くだけで心が勝手に踊りたがる。演出にもすごくこだわりを魅せていて、「○×△どれかなんて」のところでは、歌詞とリンクするように天井に大きく「○×△」のマークが大きく映し出されていた。rayでは曲の途中で手拍子をするところがあるのだけれど、その部分を完璧に出来たときには、それはもう大吉。実はこれ結構至難のワザで、右手をワイパーのようにアーチを描いているときに、颯爽と左右の手で2回クラップするのである。だからクラップが来るタイミングに合わせて、事前に心の準備をしておかないといけないのである。僕は未だかつてrayですべてのスラップに成功したことがない。

 

―新世界―

「君と会った時 僕の今日までが意味を貰ったよ」藤くんが新世界の最初のフレーズを歌ったとき、今までにないほどの心の喝采と歓声が漏れて聞こえてきた気がする。こちらもクラップの難易度が非常に難しい曲。というかクラップの難易度がどうのこうのどころか、身体が勝手に左右にリズムをとっている。まさかBUMPのライブで「ベイビーアイラブユーだぜ」なんて拳を掲げて叫ぶなんて夢にも思っていなかった。「もう一度起きたら 君がいないかも」「ナゴヤアイラブユーだぜ」と細かいアレンジや歌詞替えをしながら、藤くんはテンションが最高潮に達していたように見えた。2番からはマイクハンドに切り替る藤くん。ハンドマイクでヒロに近づき、「君が太陽」と歌いあげる藤原。ついはっちゃけて花道から落ちそうになる藤原。「ケッケッケッケンカのゴールは仲直り」と丁寧にリズムをとる藤原。「宇宙ごと抱きしめるよ」と歌いながら、ギュッと抱きしめるポーズをとる藤原。彼は本当に40歳なのでしょうか?

 

―supernova―

「みんなまだ元気ある?一緒に歌おう!」このような藤くんのMCから演奏されたのがsupernova。supernovaは年を重ねていくごとに、ひとつひとつの歌詞が、別々の絵の具をパレットに混ぜた時みたいに、少しずつ染まって濃くなっていく。「本当のありがとうは ありがとうじゃ足りなくて」「本当に欲しいのは 君と歌った今なんだ 今なんだ」こんな風に、いつも藤くんは強烈に「今」という時間を大切にしたいと強く願っている。お互いにかけがえのない時間同士が繋がった瞬間で、それはもう限りなく奇跡に近い。腕に装着した柔らかく光るPIXMOBを眺めながら、高く掲げた手を左右に振る。音と言葉を全身で抱きしめたら、あっという間に曲が終わってしまっていた。その後会場は明転して、メンバーが盛大な拍手を送る。むしろこちら側が盛大に出来るだけ長く彼らに拍手を送りたい気持ちだった。音楽を届ける側と受け取る側の需要と供給が良い意味で合っていない。

 

―流れ星の正体―

「今日は本当にどうもありがとう。」とても寂しそうな声を放ち、最後の曲である流れ星の正体がなだらかに演奏された。楽しい時間はすぐ過ぎるって言うけれど、常套句のいたずらもさすがにオーバー過ぎた。一生今日が続いてほしいって心から思った。私たちの心の憶測に眠っている流れ星を、彼らは見つけてくれて、ずっと側に寄り添ってくれる。だから自分という光を輝かせることができる。ああ魔法の時間だった。

 

「ありがとう!」藤くんは、すべてを出し切ったような肉声でこう叫び、メンバーはステージ裏にはけていった。そしてアンコールがおこなわれた後は、ツアーTシャツを着た4人が再びステージに姿をあらわす。「ハイチーズ!」という古渓さんの掛け声とともに記念撮影をする。というかツアーをするたびに、明らかに古渓さんのファンが徐々に増えてきている。僕もいつかは「古渓さーーん!」と声帯が枯れるまで叫んでみたい。撮影が終わると、メンバーはそれぞれの担当する楽器をかまえる。「アンコールどうもありがとう!」藤くんの声帯から出る言葉を浴びて、アンコールが始まる。

 

【1日目】 

 

―ランプ―

まさかのランプだ。この曲はライブでは初めて聴く気がする。おそらく。僕は20周年記念ライブのライブCDを聴きすぎているせいで、これまで生で聴いた楽曲かどうかの区別がつかなかった。というかドームというとてつもない大きな会場で、インディーズ時代の曲を演奏するって、良い意味でズルいし絶対にどうかしている。こんなの、好きになる以外の理由が見当たらない。アンコールを舐めちゃいけない。「小さく震える手にはマッチ」という最初のフレーズを聴いた瞬間は、思わず逆に冷静でいられた。

 

―カルマ―

今記事を書いていて思い出したんだけれど、5年前におこなったBFLYツアーのときもナゴヤドームでカルマを聴いた覚えがある。それ以来ライブでは聴いていなかったから約3年振りに聴くことになる。というか大抵の曲はライブで演奏しないことが多いから、いずれの曲も生で聴くときは久しぶりに聴くことになる。BUMPを好きになるきっかけとなった1曲を聴けるのはすごく嬉しい。

 

【2日目】 

 

―同じドアをくぐれたら―

衝撃of衝撃。僕界の中に衝撃が走った。それはまるで衝撃。衝撃の笑劇。それ以外の言葉が見当たらない。一番最初の「もう」を聴いたとき、正直「これは何の曲だ?」と思ってしまった。でも次の「気付いたろう」のフレーズでやっと曲名を把握することができた。ちなみに同じドアをくぐれたらは、めちゃくちゃ久々に演奏した曲らしく、なんと約15年振りに歌ったのだそう。藤くんも歌い終わったあとに思わず「この曲久しぶりにやったんだよねぇ...。」と呟いていた。僕はライブで、普段あまり再生しない曲を聴くとすぐに好きになるという、思考が単純of単純なので、もうめちゃくちゃ好きになりました。今後ともお付き合いよろしくお願いいたします。

 

ガラスのブルース

4人が向かい合って一斉にリズムをとる。これはおそらくあの曲だろうなと感じた。やっぱり、予想は的中していた。ガラブルだ。ガラスのブルースはBUMPの原点ともいえるべき楽曲でめちゃくちゃ好きだ。「僕のことは忘れていいよ」「君が挙げたその手を」などと歌詞替えをして、ラストサビ前の「ガラスの眼を持つ猫は~空を見上げてガラスのブルースを」までをみんなで合唱する。最後の最後には「どうもありがとうぉぉ!」と命を削るかのように魂の叫びで心を打ち抜いてくれた。余韻をもたらすアウトロ、鳴りやまない暖かい拍手、溢れ出すドーパミン、すべてが愛しくて愛しい。目に映るすべてのキラキラを声にならない拍手で何倍にもして届けた。

 

―バイバイサンキュー―

「僕らは君の側にいるなんてウソは言えない。だって物理的に僕は君の側にはいられないから。でも音楽は君の側にある。それには根拠がある。僕が曲作っているとき、つらいなぁとか、この曲書き上げられるのかなぁって思うこともある。そんなときは、聴いてくれる君のことを思い出したら、意地でも書き上げてやるって思えるようになった。僕に撮って君は、僕を照らしてくれるたいまつみたいな存在だった。だから音楽はいつでも君の側にいる。そんな僕らの音楽に気付くかどうかは君次第なんだよ...。今日は本当にどうもありがとう!....あの、もう1曲やっていいですか?電車とかヤバい人は帰っていいからね。俺そんなことで怒らないし。メンバーも入れる人から自由に入ってきて!」こんなMCを藤くんがした後に、バイバイサンキューが演奏される。MCをしゃべっているときの藤くんは、いつもとはどこか違っていたような気がした。たった2、3時間のライブで、どうしてこんなにも感情や心が動かされるのだろうと不思議に思っていた。けれど、2日目の藤くんのMCを聴いて、少しだけ答えに近づけたような気がした。結局のところ、人生を生きていくうえで、一番大切なことは「わがままな自分に素直でいること」のように思う。そこには周りの意見だったり、世間体だったり、固定観念だったり、色んなものが付随してくる。だけれど、自分に自分が素直でいると、それらがまわりまわって、結局は誰かの人生を豊かに幸せにするキーになる。ドアを開ける鍵の形は違えど、その人にとってかけがえのない何かになることは間違いない気がする。それは数字という不明瞭なものじゃなくて、それだけじゃ到底あらわすことができない行き違う感情のパズルみたいな。「答え」ってなくていいんだってすごく気持ちが楽になってような気がした。というか答えがないほうが面白くて楽しかったりする。

 


アンコールが終わると、藤くんは「バイバイ、おやすみ、またね。」と言い、ステージを後にした。ステージ写真OKタイムで写真を撮りまくり、僕たちは何度もステージを振り返って、会場を深く目に焼き付けて、ドームを後にした。

 

 

こうしてありがたいことにナゴヤドーム2daysに参戦することができたのは、色んな偶然が重なった結果だと思っている。そして明らかに、生活をする上で、大げさにいえば人生においてBUMP OF CHICKEというバンドを知れたことは僕にとっては恐ろしいくらい、生きていくための栄養素になっている。

 

 

aurora arkの旗の下でPIXMOBがキラッと光った。

 

 

流れ星みたいに、オーロラみたいに。

 

あい!

よく分からない絵を描いたら、よく分からないことになった

いろはすって何で無色透明なのに味がするんだろう、と不思議に思っていたら、いつのまにか日が暮れていた。

 

もも、みかん、なし、いちごミルクとか、色んな味のいろはすを飲んできたけれど、未だに透き通った透明な水になぜ味が付いているのか分からない。それに、液体に「いろ」がついていないのに「いろはす」という名前なのも謎だ。せめて「いろ」をつけてほしい。でも「いろ」をつけたら、それは「いろはす」じゃなくなる。いろはすパラドックスだ。

 

こんなことを考えながら、いろはすの横に目を移すと、そこには6枚切の食パンがあった。そもそも食パンと言う名前、これは「主食用パン」の略語らしいが、逆に食用じゃないパンなど存在するのだろうか?食べれないパン?フライパン?謎謎?

 

僕の半径1メートル以内には、色んな不思議が潜んでいる。僕は考え過ぎてお腹が空いたから、食パンの袋から食パンを取り出した。紛れもない食パンだった。子どもの頃から食パンは食パンの形を変えることなく、ずっと食パンとして居てくれている。食パン、すごい。

 

ここでまた一つ、疑問が浮かび上がってきた。「この食パンの袋を留めているプラスチックで出来たこれ、何て言うんだっけ?」僕は、記憶の片隅にある引き出しを探し、すぐに答えに辿りついた。そうだ、バック・クロージャーだ。この何か特徴があるようで特徴がないこの留め具。デザイン、形、色、すべてにおいて満点だ。食パンをおいしく食べられるように、バック・クロージャーは、ちゃんと食パンを密封してくれている。まさに縁の下の力持ち、いや、もしかしたらコイツが主役説まである。

 

ここで、僕はふと、何かよくわからない衝動に駆られてこう思った。

 

 

「絵が描きたい」

 

 

そう、絵。鉛筆でデッサンとかじゃない。パソコンで絵を描きたい!

 

皆さんもこういう経験ないですか?なんか急にある特定の何かがしたくなること。急に柿ピーが食べたくなったり、ジグソーパズルがしたくなったり、GO!皆川のモノマネがしたくなったり、ありますよね?

 

早速僕は、パソコンに元から入っているフリーソフトであるペイントを立ち上げ、バック・クロージャーを机の上に置いて、マウスを小刻みに動かしながら絵を描き進めていく。おそらく人生でこんなにもバック・クロージャーをまじまじと見たことは一度もないだろう。もしかしたら、これが最初で最後のバック・クロージャーガン見だろう。そう思うと、とても光栄で輝かしい。おめでとう、自分。

 

歪な形をしたバック・クロージャーに虜になってはや30分。ようやく完成が見えてきた。あとは細かい修正をして…ついにバック・クロージャーが完成した。

 

それがこちら。

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我ながら上手くないですか!?

 

自画自賛党の人たちからも絶賛の嵐のこと間違いないでしょう。細かい凹凸の部分が一番苦労したけれど、一番苦労したのは、無意識に浮かび上がってくる「僕は今何をやっているんだろう?」という自問自答から一刻も早く逃れる方法を考えることだった。これでもやはり絵を描いている時間は無心になれるし、なにより楽しい。

 

バック・クロージャーを描いたことで、さらに僕の絵を描きたい欲が掻き立てられた。いつのまにか僕は、何か他にも絵を描きたい、そんな欲望にまみれていた。

 

絵が描ける対象となるアイテムは他にないか?そう思い、狭い部屋の中を歩きまわる。1周、2周、3周、何往復かするとあるものに目がとまった。そう、テレビのリモコンだ。

 

いや、でもちょ待てよ。心の中のキムタクが叫ぶ。このリモコン、めっちゃボタンあるし、さすがに全部描くのはアホなんじゃないか?そう思い、僕はどれかのボタンをピックアップして、それを描こうと思い立った。電源ボタン、決定ボタン、入力切換、早送り…リモコンをまじまじと見るとたくさんボタンがある。リモコンも近い将来、スマホみたいにタッチ操作できるんだろうか。こんなにボタンがあったら、どれを押したらよいのか分からなくなって、テレビを見る気が起きなくなるかもしれない。これがもしかしたら、若者のテレビ離れの根本にある問題なのではないか、とすら思ってきた。

 

リモコンを15秒くらい眺めた後、何をペイントしようか決まった。さあリモコンの中で栄えある僕に選ばれたボタンは一体誰なのか?

 

これはこの人だ…!

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音量ボタン!なぜ音量ボタンが選ばれたかって?それは誰もしらないし、理由なんてない。ちなみにペイントの候補に選ばれたのは「電源ボタン」と「決定ボタン」だ。なぜなら電源ボタンは、リモコンの代名詞ともいえるべきボタンで、このボタンをプッシュしなければ、まずテレビを起動することができないからだ。そして次の候補は「決定ボタン」。こちらのボタンも録画や場面切り替えなど、テレビの基本的な操作をする上で欠かせないボタンだ。じゃあ、なんでこの2代巨匠を抜いて「音量ボタン」を選んだかって?それは、愛だ。それ以上も以下もない。愛にできることはまだあった。

 

僕はもう完全にペイントに夢中になっていた。それは夏休みに虫かごと虫取り網を持って公園に行った時のように、食べ放題のバイキングでから揚げとポテトを大量に皿に乗せた時のように。

 

絵を描く妖怪と化した僕は、ついに財布の中をガサゴソと漁りだす。財布の中は色々なものが入っている。お金にカードにレシートに期限切れの割引券。今の生活はスマホと財布だけで十分生きていける。だから、もし財布を落としてしまったらと考えると、それはそれはもう激おこプンプン丸。部屋中を暴れまわって、ハンガーを頭にはめて、「あ~頭が回る~~」と言って、本当に頭が回っていないことを体で表現するだろう。僕だけにしか分からない苦しみと悲しみと罪悪感と容赦ない切迫感に打ちひしがれることになる。

 

そんなことを思いながら財布の中を見ていると、とあるアイテムにたどり着いた。おそらく皆さんも一度は見たこと、使ったことがあるだろう。持っていない人でも、名前は聞いたことがあるのではないだろうか。

 

そう、このカードだ。

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すごく目立つ色でTという文字がカードで表されているこのカード。名称は、見たまんまで「Tカードだ」。おそらくこのカードを見たことない人に「これはなんという名前のカードでしょう?」と問いかけたら、考える余地も与えないくらい条件反射的にパッと「Tカード!!」と答えるだろう。なぜならそれはすでに私たちのDNAにTカードの文字が刻み込まれているから。DNAの塩基配列であるA,G,T,CのTはTカードのTだったのだ。

 

チョコレートプラネットも瞬間的に反応するくらい有名なカードは、僕の心をいとも容易く盗んでいった。ちなみに僕はコンビニで買い物をするときに、店員さんに「Tカードはお持ちですか?」と聞かれたときは、Tカードを出すときのほうが多い。おそらく出す・出さないの割合は6:4くらいの気がします。皆さんは出しますか?出しませんか?

 

Tカードを模写し終えた僕は、まだまだ絵を描く欲望は枯れずに、むしろ若干疲れてきた身体が逆にエンジンをかけている。いわゆる、フローの状態に突入しつつあった。次で描くのは最後にしよう。そう思って僕は再び、ペイントに描くアイテムを探し出す。

 

そして僕は、ついに運命的な出会いをしてしまった。君が…まだいた….。あの時、救えなかった女王様が、長年の時を経て、目の前に現れたような。それは、インスタントのスープとかを収納する場所にいた。なんで今まで気づかなかったの?そう言われても仕方ないような、あの時、一生愛するって言ったじゃんって言われたときのような。これはもう壮大な人生のストーリー。ドラマチックでロマンチックでセンセーショナルな物語。

 

そう、君の名は。

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ブレンディースティック。なんて美しんだソナタは。冬のソナタって、主役はもしかしたらペ・ヨンジュンじゃなくて、ブレンディースティックのことだったのかもね。ネスカフェアンバサダーやバリスタも嫉妬するくらいアナタは美しい。

 

もし「The Bkendy stick」ってロックバンドがいたら、ピアノやバイオリンを取り入れた、すごくオシャレで落ち着いた系のサウンドを鳴らすだろう。一部のファンからは「ブレスティ」っという愛称で親しまれているらしい。雰囲気の良い喫茶店やバーなどでは、「私最近、The Bkendy stickってバンドにハマってるんだ~」「えーそうなの!気になる!!どんなバンドなの?」「ブレスティはねー、聴いててすごく心地よくて、何よりボーカルの人が超イケメンなの~!!」っていう会話が聞こえてくるだろう。

 

ワンマンライブでは、会場内にコーヒーの香りを漂わせなど、お客さんを楽しませるような工夫が見られるらしい。今一番勢いがあるロックバンドだ。

 

3時間くらいブルーライトを浴びながら、絵を描き終わって僕は、ムスカ大佐ほどではないが、目がめちゃくちゃ疲れきっていた。そして僕はガムのボトルを開け、ガムを噛んだ。

 

そして、ガムを噛みながら、机の上のいろはすを眺めて、「なんでいろはすって「いろ」がないのに「いろはす」って名前なんだろう?」という疑問を浮かべていた。

 

あれ、これはデジャヴ…..??

 

ファンタスティック~~~~~!!!!!!

 

あたりめを食べました

「なにか硬いものが食べたい。」

 

そう思い立ったのは夜の23時30分。

 

僕は色んなお菓子が収納してある、お菓子ボックスに手をのばした。

 

夜の23時過ぎにお菓子ボックスをあさるその姿は、おそらく傍から見れば、なんとも滑稽な姿に見えていたことは間違いないだろう。

 

何か硬いものが食べたい、そんな欲望はとどまることを知らずに、僕はお菓子ボックスをのぞき込む。

 

ガサガサ、ゴソゴソ。

 

ポテトチップス、これはサクッとした食感で、硬い感触とは程遠い。

 

カントリーマアム、これはクッキーの柔らかいバージョン。絶対にしっとりしている。

 

飴ちゃん、いや、これは硬すぎる。というか飴ちゃんは本来舐めるものだ。しかしある程度口のなかを転がしていると、少しずつ小さくなって、もういい!という謎のタイミングでガリガリと噛んでしまう。いや、僕の求めている「硬さ」とはこういう工程を経て得られるものではない。もっとこう、今僕は硬いものを食べている、という、それだけが欲しいのだ。

 

たとえば、ジャンキーなものが食べたいというときに、すぐにお肉にかぶりつくような、甘いものが食べたいときに、すぐにホールケーキを頬張れるような。こんなふうに需要と供給がすぐに隣にあるような、僕が求めているのはこういうのだ。

 

気が付いたら僕は、硬いものが食べたい妖怪と化していた。その名も「妖怪カチコチ小僧」。きっと河童もぬらりひょんも、僕を見た瞬間に逃げ出すだろう。

 

お菓子ボックスに穴が空くまで漁っていると、やっと望んでいたものにたどり着いた。そう、「あたりめ」だ。僕にとっては大あたりめ。誰がなんと言おうと大あたりめ。

 

途中に現れたポテトチップスやカントリーマアムからの誘惑に負けることなく、僕は僕を貫きとおしたのだ。人間たるもの、やはり欲というものは計り知れない。暴走した欲望に抗えるものは、この部屋には一人もいないのだ。

 

あたりめを握りしめ、僕は右から左へと封をあける。ちゃんと中身が入っていることを確認して、あたりめを1本、袋から取り出す。そしてそれを口に運ぶ。この間、わずか5秒。

 

僕はすべての思いを、あたりめの咀嚼に込めた。噛めば噛むほどに、あふれ出る旨み、そして唾液。欲望に塗れたものだけが実感できる快楽、達成感、罪悪感。それらすべてが、この咀嚼に投影される。

 

おいしい。あたりめっておいしい。こんな小学生の作文みたいな感想を述べて、また1本、また1本と、あたりめを消費していく。乾燥されたイカの加工食品が、僕の華麗な咀嚼によって柔らかい塊となり、胃に運ばれていく。

 

あたりめを狂ったように咀嚼していると、途中であることを思った。

 

それは「お酒が飲みたい」だった。

 

僕は、少し前までおつまみというものがよく分からなかった。枝豆とビールと言われても、ふーん、それは合うの?と少し半信半疑な気持ちを抱いていた。

 

でも最近になってようやく、もしかしたら合うのかもしれない、と思うようになった。飲み会や宴会などで飲むビールの類とは程遠いかもしれないけれど、少しだけその感覚が分かるようになってきたのだ。これはまさに成長というやつなのかもしれない。大人になったね。

 

しかし、お酒が欲しいといった、ささくれのような欲望は、硬いものが食べたい欲望にはかなうはずもなく、冷蔵庫に足を運ぼうとしなかった。硬いものが食べたい欲が10だとしたら、お酒が飲みたい欲は0.2くらいだっただろう。僕の左目の視力よりも小さいから大した欲望ではなかったとおもう。

 

あたりめを食べる時は、決まってお酒とセットで食べのが僕のなかでは定石とされている。しかし僕は、お酒を最寄り駅に設定しなった。なぜだろう?それはたぶん、本当にただ硬いものが食べたかっただけなのだろう。それ以上も以下もない。

 

じゃあ何でそもそも硬いものが急に食べたくなったのだろうか。夕食は普通にご飯とかお肉とか野菜とか食べた。決して豆腐やこんにゃくだけをひたすら食べていたわけではない。

 

硬いものを食べることによって、何か刺激を得たかったから?凝り固まった頭を咀嚼することによってほぐしたかったから?前世がイカだったから?たぶん、正解はなくて決まった答えもない。感情を切り取ってスライドガラスにのせて顕微鏡で見ても、そこに明確な答えは見えないはず。

 

おそらく、硬いものが食べたかったから、硬いものが食べたかったのだろう。まったくもって意味が分からない。

 

こんなことを考えているうちに、時間が経つにつれ、飽きてきて、そっと僕はあたりめの袋を机の上に置いた。快楽はすべて摩耗して、そこにはただただ「虚無」ができあがっていた。

 

ありがとう、いか。欲望に付き合ってくれてありがとう、いか。また会おう、いか。