Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

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太陽系探索1日目/クリンケンベルグ

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 終業式がおわり、待ちに待った夏休みの開幕が告げられる。夏休みは何して過ごそうかなってぐるぐる考えていたあの時間が好きだった。ランドセルに詰め込まれた重くて大きな荷物は、楽しみに満ち溢れた夏休みを体現しているようだった。真夏の日射しとセミの鳴き声、乾いたプールサイドとドキドキの通知表。胸の高鳴りは夏本番の合図で、予期できない夏のイベントの数々は思い出すだけで、生きる希望に変わる。

 小さいころは、生きている実感なんてないに等しくて、毎日が刺激に満ち溢れていて、それはとてもキラキラに輝いていた。扇風機を目の前にすれば、喉から声を出して宇宙人になれた。田んぼの畦道を渡れば、用水路に目が移って、未知の生物との遭遇ができた。日が沈めば、学校でもらった星座観察キットを使って、夜空を見上げては、夏の大三角形やオリオン座を見つけようとした。こういう一瞬一瞬のできごとは氷山の一角に過ぎないけれど、今となって振り返ると、当たり前だったことが当たり前じゃなかったんだと気付く。そして今この瞬間も、過去の記憶を辿ることができているのも当たり前じゃないかもしれない。

 夏休みと聞くと、真っ先に僕は“朝のラジオ体操”が思い浮かぶ。気怠さと好奇心に包まれて、眠い目をこすって、蒸し暑い玄関から一歩を踏みだす。公園に着くと、今までの眠気なんて吹き飛ぶほど、どこからかワクワクする気持ちがこみ上げてくる。その地区の会長的な人が前に立ってラジオ体操を始める。やはり朝から体を動かしてみると気持ちが良い。あのころは「なんで僕は朝からラジオ体操をしているのだろう」なんて考えたこともなかった。とりあえずその場所に足を運んでいた。しかし今となっては、行動する前に何かと理由を付け加えて、行動しない自分を正当化してしまっている。そんな自分が時々いやに感じたりもする。ある対象物において批判や否定をするときに「子ども」という表現を使う人がいる。その行為自体に善し悪しは存在しないけれど、やはり耳に飛び込んでくると良い気はしない。なぜならそれは、自分の過去を否定しているように聞こえてしまうからなのかもしれない。人間誰しも「子ども」という肩書きの時代があって、それを心のどこかに持って「今」という時間を生きている。大人になるということの、言葉の意味の裏側に、小さいころの記憶を裁断するという意味は含まれていない。けれど、どうしても、現代社会のしがらみにさいなまれて、そうせざるを得ない時が来たりする。それは実に様々な言い方に変換されて、時には心に大きな傷を患ってしまうことだってある。自分の過去を信じているから、裏切られた時の反動も大きくなる。

 ほんとの自分って何だろう。生きるって何だろう。考えれば考えるほど分からなくなるけれど、この星で生きているうちは、ずっと答えが出ないまま考え続けて星になるのだと思う。数分間のラジオ体操が終わると、スタンプを押してもらえて、各自解散になった。そして家に帰り、睡魔に負けて再び夢の中へ。今思えば、朝早起きしてちょっと体を動かしてまた寝るっていう、全く意味の分からない行動をしていたことが分かる。参加するたびにもらえるスタンプのために、ラジオ体操に行っていたようなものだ。だけれど、こんな無意味で無駄だと思えることでも、今では宝物のように心の中で光輝いているから、人生において無駄なことなんて何一つ存在しないんだと思う。おそらく未来から見た今もきっと、未来では心の中で光輝いていると思う。夜空に煌めく星を結んで星座を作るように、人生は繋がっていたい。