Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

すごく奥が深い気がする飲み会というイベント

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僕はたばこのにおいも好きじゃないし、お酒も全く飲めない。

 

飲み会というワードは聞こえはなんだかすごく楽しそうな雰囲気を醸し出しているけど、ふたを開けてみると、そこには人生のすべてが詰まっている。組織のなかの、小さくて、大きくもあるコミュニティのなかの、暗黙のルールが敷かれたうえでの、話し合い。

 

フラットなようでフラットじゃない言葉の交わし合い。多くの人は、喫煙所の会話や雑談で、その人となりを知って、社会で生きていく術を身に付けていくらしい。乾杯のときは、若い人はグラスを先輩よりも下に捧げるらしいとか。飲めと言われたら断らないほうがいいらしいとか。こんなの学校じゃ教えてくれなかった。

 

傍から見れば楽しそうに見える飲み会も、その輪の中に入ってみれば、たちまち見えない権力と肩書きと年齢とプレッシャーが、暗黙のルールの中で無造作におこなわれていることの怖さを知る。

 

人はお酒が入ると変わるっていうけれど、それは「変わる」じゃなくて、自ら「変えている」ような気さえする。普段は見えない何かに押さえつけられて見える人でも、お酒という魔力に引きずられて、ビジネスマンという塗装が剥がれて、「素」が見えたりする。

 

声のボリュームとテンションとたばこの煙と店内に流れる音楽がすべて絡まったとき、ああ僕は生きているんだなあと感じる。おそらく働く人たちは、この瞬間を求めて、日々という、ある意味狂気に満ちた普通の日常を送っているんだと思う。

 

学生の頃の放課後の遊びや、大学のサークルの飲み会とかいったものとは、格段にレベルが違うと感じるのも、何か固定観念の悪魔的なものに憑りつかれているゆえの、心から湧き出てくるものだと感じる。

 

目の前で先輩のグラスが空になれば、躊躇う余裕もなくビールや日本酒を注文していく姿を見るのは、お酒がまったく飲めない僕からしてみれば到底規格外の行動のように見える。

 

IT系の企業に勤めている人たちの飲み会にこれまで何度か参加してきたけれど、彼らはいい意味で完全に狂っている。本当にいい意味で。でも、やっぱりこんなにも頭のネジが外れてしまったように飲むのは、日々の仕事というものに疲労困憊しているゆえの、大きなストレス発散や気晴らし的なものだとしたら、何だか少し悲しくなってくる。

 

僕みたいな、いつもぬるま湯に浸かっているような人間からしてみれば、そこに「憧れ」の4文字は見当たらないっていうと大袈裟だけど、それはきっと日常のなかの「金曜日の飲み」という、ほんのワンシーンを見ているから、そう思うだけなのであって、先輩にはたくさんお世話になってきたし、色んなことを勉強させてもらったから、とても感謝してもしきれない。

 

目の前のことに真摯に向き合う姿勢はすごいし、尊敬できる。っていうと何だか、綺麗ごとを並べて大きくカバーしているみたいだけど、心からそう思う。

 

結局のところ、ビジネスという世界では、結果を出して利益を出している人間が偉いということ。偉いから威張って良い。なんか理性を失って欲を剝き出しにしているみたいだ。シビア?この世界は繊細でシビアなの?分からない。ビビビーン

 

いつも残業ばっかりで、上司からは詰められて、たくさんの書類を落として、「お疲れ様です」を言って、帰り道に人生に迷って涙を流して、でも繰り返していくうちに少しずつ認められるようになって、結果も出して、ある日の飲みの席でビール片手に同僚や上司と肩並べて笑って。このような類の広告をよく見る。こういうストーリーのある広告はものすごく惹かれる。なんでだろう?こんなにも違和感を抱いていたのに。

 

あるべき姿とか、正解とかはないはずなのに、どこか感動さえ覚えている自分が心のなかにいる。お酒もたばこも趣味も恋愛も仕事も夜の街も終電も、全部力尽きるまで本気を出してる日常が好きだ。この狂ったような当たり前の日常が好きだ。

 

ああ、これが働くということかって。体調が悪くなってしまって休職した会社で、もがき苦しみながら日々を送っていたことを思い出した。あの頃と同じ場所で。

 

やっぱり頭のネジ外れているほうが生きてるって感じするような。外れたネジはきっと未来を支えてくれる大きな糧や宝物になるような気がする。

 

僕はなにを書いているんだろう。

 

ぐるぐるぐるぐる。

 

グルコサミン。