Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

太陽系探索5日目/ハレ―

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 マスタード色に塗られた記憶のなかでは、誰かを好きになることさえも、退屈になって気が緩む。与えられた場所で花を咲かせるために、あらゆる手を尽くすけれど、あんまり上手くいかなくて、“慣れ”というものに自分が染まっていく。このままでいいのかなあって思うけれど、時間というものは止まってくれなくて、何か分からないものに置いてけぼりになったりする。異性の人との接し方なんて分かっているフリしながら何も分かっていなくて、そんな自分に恥ずかしくなったりする。何でも“初めて”って恥ずかしい。

 やっとこの頃から異性の人を気にかけるようになって、心躍るようなたくさんの出来事やイベントが発生したけれど、やっぱり慣れないものは慣れなくてずっとモヤモヤが残る。そんな、まだまだ未熟過ぎる自分が時折嫌になったりする。夏の蒸し暑さと微睡みのような、気怠いハチミツみたいなものが頭の中をゆっくりと流れていって、考えては落ち込んでを繰り返す。

 それでも曖昧な勘違いを経て、少しずつ正体不明の自信を身に付けていく。何もかもが未経験だから、目の前で起こるイベントに正面で向き合っていくしかなかった。正体不明の自信を持って挑んでも、それは華麗に砕け散って、また脳内自分反省会が始まる。“まだいける”って何度も思って上手く飲み込もうとするけれど、それでもまだ大きな固形物が残っていて、きれいに咀嚼できない。そんな自分を何度も嫌になって、時々好きになったりする。どんな失敗さえも凌駕するほどの自信を持っていけたらいいのだけれど、本当の自分を見失いそうでとても怖い。そもそも本当の自分って何だろう。

 こんなことを思いながら行く、地元のお盆祭りは、見る景色さえ変わらないけれど、やっぱり二度と訪れることのない青春を謳歌したいって気持ちは心のどこかに残っていて、手を繋いで楽しそうにイチャイチャしているカップルを横目に、少しの希望と大きなプレッシャーで頭が埋め尽くされる。でもやっぱり“いつかは”って気持ちが少なからずあってそんな微かな光を糧に、平坦な毎日を下手なりに生きていた気がする。

太陽系探索4日目/ドナテイ

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 読書感想文と人権作文とポスター、教科の宿題と自由研究。夏休みが始まって、どうにかして7月中にすべての宿題を片付けようと意気込むけれど、それは言葉だけで摩耗して、気付いたらお盆過ぎになっていたりして、もうすぐ夏休みが終わろうとするなか、必死で残りの宿題を片付ける、というのが定番の流れになっている。夏休みの宿題は面倒だけれど、一度そこに身を投げ出せば、意外と楽しいことに気付いたりする。夏休みの宿題は、夏休みを何倍にも楽しくするためのガソリンみたいなものだ。ひとつ宿題をやり終えた後の達成感は、夏休みを楽しくさせるエネルギーやパワーに変わって、蒸し暑い毎日を充実させてくれる。外の暑さに比例するように僕の心も燃えていき、お盆を過ぎたあたりから、少しずつ炎の輪郭は小さくなってゆく。

 お盆という連休は、一年のなかで数少ないダラダラとできるひとときだ。そして、地元では毎年お祭りが行われていて、どこからこんなに人が集まっているのだろうと不思議に思うくらい混雑する。盆踊りと浴衣姿、屋台のから揚げのにおいとリンゴ飴。目の前の景色ひとつひとつが、幼少期から紡いできた“夏”を感じさせる。何か正体不明の胸のざわめきで心が満たされる。屋台で買ったフライドポテトや、最後の最後で割れてしまった型抜き、暑い体に染み入るようなかき氷と夜空に打ち上げられた大きな花火。その中にいるときも、ちゃんと夏を感じ取れた。

 一日一日が同じ速度で流れていって、同じ空の下で同じ時間を刻んで私たちは生きている。遠いあの日の空も今日の空も同じ空で、宇宙規模で見れば変化なんて“ない”に等しい。けれど、それとは裏腹に、私たちの心はとどまることを知らずに育っていって、気付いたらこんなにも歳を重ねてしまっていた。こんなにも歳月が経っているのに、空は決して変わらない空で、だけれど私たちの心と体はもうすっかり変わり果てている。あの日見た空も今日見た空も、同じ空なら成長なんてものは存在しないような気がする。もしかしたら、こうしてあの日と同じままの気持ちで夏を感じることができるのも、当たり前の事象なのかも知れない。

 地球が生まれて46億年とかいうけれど、それに比べれば私たちの生きている時間なんてちっぽけで塵みたいなもの。だからこそ生きている意味、生きていく意味があるというか、こういう言い回しの類は耳にタコが出来るくらい聞いてきたけれど、やはり何度考えても不思議で壮大で神秘的である。彩りに彩りを重ねても真っ黒にならないのは、おそらく、塗られる色が透明に透き通っているか色のついた光源かどっちかだと思う。あの日は全くもって、今が遠い過去になって、未来の自分が過去のことを思い返すなんて考えもしなかった。だから将来がどうとか、過去がどうとか、考える暇もないくらい、今を精一杯生きるほうが、ひょっとして正解なのかもしれない。

太陽系探索3日目/テバット

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 真っ白な絵の具のキャンバスに、感情という色が混ざり合って、ひとつひとつの色が結び合って虹色に輝いていた。今でもあの頃の記憶を鮮明に思い出すことができるのは、ダイヤモンドの原石のように、光沢を帯びてキラキラに煌めいていたからだろう。何事にも支配されることなく心は広大で自由だった。少し成長した体と心と一緒に、二度と来ることのない夏がまたやってくる。思春期という貴重な切符を手にして、自分のことを好きになったり嫌いになったり、友達と笑いあったりふざけ合ったりした。もちろん恋愛だって、“好き”って気持ちの正体なんて分からないまま、恥ずかしさに隠れて自分を出せないでいた。噂が噂を呼んではたちまち学校中に広まって、それに一喜一憂したりして、そんな毎日が繰り広げられた。

 夏の始まりは、あの頃の思春期や甘酸っぱい青春にドレスを纏わせるように、何かが始まる予感で身体中が埋め尽くされる。真夏の8月に、細い田んぼのあぜ道を、汗をかきながら、精一杯自転車のハンドルを握って走り回った。中学生のころにとって自転車は必須アイテムだった。どこにだって行けた。1年に1回開催される地元の花火大会は特に記憶に新しい。屋台と大勢の人混みに塗れて買った焼きそばとから揚げ。夜空に煌めく打ち上げ花火を見上げては、まだまだ童心な気持ちのなかに、何かが開花しそうな気持ちが芽生えていく。小さいからだに、余すことなく入り込んでくる打ち上げ花火の爆音が、夏という概念の輪郭を縁取っていく。右も左も分からない幼い自分のなかに、確かに“夏”が刻み込まれていく。

   いつか女の子と二人で花火を見に行きたいなんて、思春期の脳内に身を任せて、そんな妄想をしながら、夏のカウントダウンが進んでいく。変わらないものなんて、何一つないけれど、確かにあの頃感じた気持ちは、まだ心の奥で光っていた。夏という季節が来ると毎回、心の記憶の引き出しを探し回ることなく、無意識的に光の速度で見つけ出せる。匂いも景色も心情もすべて、真っ白な状態で掘り起こせる。こういう“ふとした瞬間”を大切にしたいなあ。

太陽系探索2日目/レクセル

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 薬の副作用的な速度で、夏の蒸し暑さは、好奇心旺盛な子どもの頃の身体を刺激してくる。時間とともに少しずつアップデートされてゆく探求心や知的好奇心は、夏場になると、とどまることを知らない。朝早くから捕まえにいったカブトムシと、虫よけスプレーの匂いと一緒にみた花火、日射しが照り付ける中おばあちゃん家で行ったBBQ、友達と心マックスではしゃぎまくったプール。どんな場面でもスーパースターになれた。  

 子どもの頃は、野性的で本能的だから、未来に起こる出来事をあまり予測できない。だからあの頃は「今」という時間1秒1秒を噛みしめて敏感に生きていた。毎日がドキドキで魔法のような日々だった。子どものころは学校が世界のすべてだから、“現実”というものは“夏休みの宿題”だった。年を重ねた今では、子どもの頃に抱いていた“現実”の意味とは随分変わってしまっているけれど、あの頃の自分にとっては目を背けたくなる存在だった。そんな目を背けたくなるような夏休みの宿題だったけれど、楽しさのコップが最大限に達して、そこからたくさん零れたしずくがモチベーションやエネルギーに変わり、容易く宿題を熟すことができた。つまり、行動力やエネルギーの源は、かけがえのない好奇心だった。

 こうして今、世間一般的に“大人”と呼ばれる年齢に差し掛かってやっと、子どもの頃の未熟な好奇心が、貴重なもので大切なものだったんだと気付く。子どもの頃はそれが当たり前で、毎日がスポンジのように、たくさんの知恵の木の実を拾っては吸収していた。人間は当たり前の環境のなかにいると、その当たり前の大切さに気付かない。普段当たり前に生活できているのも、食べることができているのも、外に出て遊ぶことができているのも、それが出来なくなってはじめて、当たり前の大切さに気付くことができる。子どもの頃に、それに気付けたらなって思うけれど、気付いてしまったら、その瞬間に好奇心や探求心がなくなってゆくと思う。世の中には絶対という言葉は存在しなくて、知らないほうが良いことだってたくさんある。いつまでも子どもの気持ちのままいられたらいいなって思うけれど、やはり一周回って子どもの頃の気持ちのままが良いような気がする。

太陽系探索1日目/クリンケンベルグ

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 終業式がおわり、待ちに待った夏休みの開幕が告げられる。夏休みは何して過ごそうかなってぐるぐる考えていたあの時間が好きだった。ランドセルに詰め込まれた重くて大きな荷物は、楽しみに満ち溢れた夏休みを体現しているようだった。真夏の日射しとセミの鳴き声、乾いたプールサイドとドキドキの通知表。胸の高鳴りは夏本番の合図で、予期できない夏のイベントの数々は思い出すだけで、生きる希望に変わる。

 小さいころは、生きている実感なんてないに等しくて、毎日が刺激に満ち溢れていて、それはとてもキラキラに輝いていた。扇風機を目の前にすれば、喉から声を出して宇宙人になれた。田んぼの畦道を渡れば、用水路に目が移って、未知の生物との遭遇ができた。日が沈めば、学校でもらった星座観察キットを使って、夜空を見上げては、夏の大三角形やオリオン座を見つけようとした。こういう一瞬一瞬のできごとは氷山の一角に過ぎないけれど、今となって振り返ると、当たり前だったことが当たり前じゃなかったんだと気付く。そして今この瞬間も、過去の記憶を辿ることができているのも当たり前じゃないかもしれない。

 夏休みと聞くと、真っ先に僕は“朝のラジオ体操”が思い浮かぶ。気怠さと好奇心に包まれて、眠い目をこすって、蒸し暑い玄関から一歩を踏みだす。公園に着くと、今までの眠気なんて吹き飛ぶほど、どこからかワクワクする気持ちがこみ上げてくる。その地区の会長的な人が前に立ってラジオ体操を始める。やはり朝から体を動かしてみると気持ちが良い。あのころは「なんで僕は朝からラジオ体操をしているのだろう」なんて考えたこともなかった。とりあえずその場所に足を運んでいた。しかし今となっては、行動する前に何かと理由を付け加えて、行動しない自分を正当化してしまっている。そんな自分が時々いやに感じたりもする。ある対象物において批判や否定をするときに「子ども」という表現を使う人がいる。その行為自体に善し悪しは存在しないけれど、やはり耳に飛び込んでくると良い気はしない。なぜならそれは、自分の過去を否定しているように聞こえてしまうからなのかもしれない。人間誰しも「子ども」という肩書きの時代があって、それを心のどこかに持って「今」という時間を生きている。大人になるということの、言葉の意味の裏側に、小さいころの記憶を裁断するという意味は含まれていない。けれど、どうしても、現代社会のしがらみにさいなまれて、そうせざるを得ない時が来たりする。それは実に様々な言い方に変換されて、時には心に大きな傷を患ってしまうことだってある。自分の過去を信じているから、裏切られた時の反動も大きくなる。

 ほんとの自分って何だろう。生きるって何だろう。考えれば考えるほど分からなくなるけれど、この星で生きているうちは、ずっと答えが出ないまま考え続けて星になるのだと思う。数分間のラジオ体操が終わると、スタンプを押してもらえて、各自解散になった。そして家に帰り、睡魔に負けて再び夢の中へ。今思えば、朝早起きしてちょっと体を動かしてまた寝るっていう、全く意味の分からない行動をしていたことが分かる。参加するたびにもらえるスタンプのために、ラジオ体操に行っていたようなものだ。だけれど、こんな無意味で無駄だと思えることでも、今では宝物のように心の中で光輝いているから、人生において無駄なことなんて何一つ存在しないんだと思う。おそらく未来から見た今もきっと、未来では心の中で光輝いていると思う。夜空に煌めく星を結んで星座を作るように、人生は繋がっていたい。