Gummy Gummy Night Festival

時空を旅する

よろしくお願いいたします。

風船

 無数に立ち並ぶビルの街並みや、地下鉄の駅のホームのにおい、暑い季節が間近に迫って期待と不安に胸を躍らせる6月。儚く刹那的に、何度も“あの頃”を思い出しては、らせん階段のようにスルッと頭から抜けてゆく。悲しい思い出も、楽しい思い出もぜんぶ、年齢を重ねるたびに昇華してゆく。昇華しては抜けていく。その繰り返し。においと景色。この二つは、遠い過去の記憶を呼び覚ますための重要なアイテムで、それはふとした瞬間に降りてくる。その瞬間は懐かしさと同時に楽しいという感情も湧き出てくる。ああこの瞬間のために生きてきたんだなあって感じることさえあったりする。悲しい記憶も楽しい記憶もぜんぶ、これから先生きていくなかで降りてくるなら、少しでも生きてゆく意味がある気がする。
 においと景色から舞い降りてくる懐かしさに出会うためには、子どもの頃のような野性的な心や好奇心が大切だと思う。でも大きくなるにつれて、そういう類のものは、少しづつ削ぎ落とされていく。おそらく自分のなかで育まれた世間体や社会性という、変えようのない事実に踊らされているだけ。でも否定はしない。なぜなら、否定をすれば自分という存在までも否定しているような気がするから。こんな感覚はいつまで経っても腑に落ちなくて、ふわふわと宙を舞う風船のようなものが、ゆらゆらと風に靡かれながら、行き場もなく上空へ上がっていく。その風船は宇宙空間にたどり着いても決して割れることはなくて、ずっと答えが出ないままゆらゆらと“どこか”へ進んでいく。

 こんな感覚を身にまとって、二十数年間生きてきたけれど、やはり答えは出なくて、モヤモヤしたままで、それでも僕のために世間は待ってくれなくて、当たり前のように生活は続いてゆく。ある意味狂気に満ち溢れているような、そんな気さえする。身の回りの人たちは、何を考えながら生きているんだろう、どんなビジョンを描きながら生きているんだろう。最近は、意味もなく考えたりする。もちろんすべての人に人生があってドラマがある。正解不正解の概念なんて存在しないけれど、だからこそ「こんな生き方もあるのかぁ」って思ったりして、それが面白く感じたりする。まさに好奇心が生まれる瞬間である。人間、面白いことや刺激がなくても生きていけるけれど、あったほうが何倍も楽しいよね。踊らされないで踊りたい。生かされないで生きたい。

旅行


 いつも見ている景色なのに、今日はどこか違って見えた。旅から帰ってきた日は、身体に絡まる隅々の細胞たちが言うことを聞いてくれなくて、摩耗し切った肉体に残るのは猛烈な疲れと眠気しかない。次々と目の前に現れる見慣れない風景に、日常では味わうことのない唯ならぬ刺激を受けて、身体が良い意味で悲鳴を上げている。ちょっとだけ、いつもとは違う自分に出会えた気がするから、どこか遠くの場所に旅をするのはすごく好きだ。クリームパスタに添えるパセリのような、休憩時間に嗜むコーヒーブレイクのような、ふとした何気ない瞬間にするキスのような。こんなちょっぴりした気持ちよさみたいなものが、少しずつ重なって非日常に変わる。変わらない生活に光が射し込む。生活は変わらないから、また日常に戻るのだけれど、旅をした思い出は、スマホで撮った写真では語ることのできないくらい、心の奥底でずーっと光を放っている。
 旅先でいつも思うことがある。それは、ここにいる人たちは私たちと同じように生活をしていて、ここで生きているってこと。当たり前だけれど、僕にとっては当たり前じゃないように感じる。もちろん、旅をしているのも当たり前じゃないし、こうして考えを巡らせることが出来るのも当たり前じゃない。突き詰めていけば、すべてが当たり前じゃなくなる。ここにいる人たちは何を考えて毎日を生きているのだろうとか、今すれ違った人はどんな人生を歩んできたのだろうとか、こんなこと考えても、どうしようもないのだけれど、何か無意識に感じることがあって、刺激に満ち溢れた頭のなかに、ポツンと答えのない問いだけが現れる。こうして普段あまり考えないようなことを、旅先では考えることができるのも、旅行の醍醐味のひとつだと思う。自分ワールドのなかだけに閉じこもって、そこで完結してしまう変わらない毎日から抜け出すことは、決して簡単じゃないけれど、潜在意識のなかで起こる刹那的な感情を丁寧に紡いで咀嚼していくことを繰り返せば、何か少しだけ自分と毎日が変わる気がする。一番知らない自分自身を見つけ出す。こんな単純明快なこと、分かってるフリして分かってない。もっとちゃんと愛さなきゃ。好きな人も自分自身も。今すごく意識が朦朧としたなかでこの文章を書いてる。まとまってくれない日本語だけを、忘れないうちに言語化したいなあっていう想いだけで、疲れた身体を絞ってます。主語と述語がなくても、乱れた文章の羅列から、単語だけを抜きとって、何かを心に感じることができる。そういうところが日本語の面白いところであって、美しいところだと思ったりする。久しぶりの旅行ですごく疲れたけれど、今の時間が永遠に流れたらいいなあって何度思ったか分からないくらい本当に幸せだった。なんでも、"はじめて"って緊張するけど、そんなことも忘れるくらい濃い時間だった。ずーっと微笑みあって寄り添いあっていたいなあ。音符を紡いでいたい。

喜怒哀楽÷4=?

 他人の感情に惑わされたくないって嘆きながらも、自分の刹那的な感情で他人を惑わしている自分自身に嫌気がさしてしまうことがある。こんな自分が嫌だなあって思いながらも、受け止めていくしか方法はなくて、できるだけ自分の負の感情は外に出さないように意識しているけれど、心の内側に入り込んでいけばいくほど、自分という存在が崩れていくような気がして、アンバランスな感情を平行に保つのがとても難しい。日常を生きていると、嬉しかったり、楽しかったり、悲しかったり、モヤモヤしたり、多種多様な感情たちで頭の中が埋め尽くされて忙しくなる。感情に数字的な概念は存在しなくて、日常生活で生じるすべての感情を、感情の数で割っても、絶対に平均的な感情というものは導き出せなくて、どうしても一番最後に残るのは、悲しい感情や切ない感情になってしまう。人生において、きっと悲しいことより、楽しいことのほうが何倍も多いのだろうけれど、やはり悲しい感情の強さは強烈で、心のなかに深い傷を刻むように、ずっと消えないで残っていくような気がする。「悲しいことも糧にして」って常套句みたいに言うけれど、僕はきっと立ち直れない。でも、こんなジリジリした気持ちのほんの少し上をギリギリにかすめて、何事もなかったかのように笑って生きていかないといけないことは分かってる。いつも悲しさのギリギリをかすめて精一杯本当の自分じゃない取り繕った笑顔でいるから、いつかはボロが出て、壊れてしまう。だから、そうならないためにも、子どものころのような、純粋で無垢で素直な心を、大人になっても、ずっと持ち続けていたいし、大切にしていきたいって本気で思う。日常で起こり得る些細なできごとや楽しかった感情に、素直に向きあって、楽しいときは楽しいって、嬉しいときは嬉しいって、辛いときは辛いって、自分にうそをつかないで生きていくことが、結果的に、幸せにつながっていくような気がする。

リレーのに“バトン”に代わる!日常生活のアイテム5選

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 突然ですが、皆さんは今までにリレーをしたことがありますでしょうか?

   リレーとは、バトンと呼ばれる縦長で筒状の道具を、第一走者から順番に第二走者、第三走者へと渡し繋いで行き、タイムを競う競技のこと。小中学生の運動会や体育祭で、クラス対抗リレーなどをしたことがある人も多いと思います。

 そんなリレーで、勝敗を分けると言っても過言ではないほど重要となってくるのは、テイクオーバーゾーン内で行われるバトンパスでしょう。テイクオーバーゾーン内で、いかに効率良くバトンを次の走者に受け繋いでいくかの技術が、最終的なタイムに大きく影響してきます。すなわち、足が遅いチームでも、バトンパスの技術に磨きがかかっていれば、上位にランクインすることも夢ではないということになります。

 

 というわけで今回は、日常生活にあるもので、筒状のバトンに代わり、なおかつ、素早いタイムを導き出すことができるアイテムを5つご紹介したいと思います。

 

それでは早速まいりましょう。

 

サランラップの芯

 いきなりバトンの代用品になり得るアイテムが出てきましたね。長さ、重さ、形状、握りやすさ、どこを切り取っても完璧です。リアルに現役のリレー選手でも、バトンを失くしてしまった場合、サランラップの芯で代用しているんじゃないか説まで浮上してきます。また、トイレットペーパーの芯でも代用可能なのでは?と思ったのですが、いかんせん短すぎるのがデメリットなので、候補からは外すことを余儀なくしました。学校でリレーがあって、バトン渡しの練習をしたいけど、バトンがないから出来ない!と嘆いているそこのあなたは、今すぐサランラップの芯を用意すると良いでしょう。

 

トーチ

 トーチ、すなわちたいまつのことです。ジャグリングやパフォーマンスなどで目にしたことのある人も多いと思います。なかでも、もっとも多くの人がトーチと聞いて始めに連想されるワードは“オリンピック”でしょう。ギリシャアテネから始まったオリンピック聖火は、オリンピックの象徴とも呼ばれる伝統的な儀式です。そんな歴史あるオリンピックの式典は、トーチを手に持ちリレーをすることで、いともたやすく実現させることが可能になります。トーチを手に持って走る姿はまるで、聖火ランナーに選ばれて大注目を浴びながら走る選手そのものです。人は注目を浴びているときほど、プレッシャーと比例して、良い結果に繋がるものです。ただし、火の取り扱いには十分ご注意してください。ケガをしてしまっては、リレーどころじゃなくなります。

 

竹 

 ひとたび、森林に足を運べば、そこには数えきれないほどの草木や大木が生い茂っています。ちなみに竹は学術的には大木の仲間に位置づけられるそうで、今や巷では、建材や内装材、工芸品や日用品など、多種多様な用途で利用されており、日常生活では欠かせないものとなっています。そこでやはりリレーをする際にも、竹を取り入れてみてはどうか?という僕の独自の判断により、今回候補に入れさせていただきました。乾燥した竹は十分な硬さと柔軟さを兼ね備えており、バトンの代替品としての条件はバッチリと言えるでしょう。日本古来から日用品として語り継がれてきた竹の魅力と哀愁を感じながら、バトンを繋いで走るもの姿は、ある種の青春と捉えることもできます。ぜひこの際に、日本の繊細さ、素晴らしさをを感じてみてはいかがでしょうか。

 

フランスパン 

 「食べ物で遊ぶな!」という声が遠くから聞こえてきそうですが、運動家や体育祭を思い出してみてください。競技種目のなかに“パン食い競争”がありましたよね。さらに、障害物競争では、小麦粉の中に飴を仕込ませて、口だけを頼りに飴を探し出すというダイナミックな競争が繰り広げられていました。そう考えると運動会に食べ物というものは必要不可欠な要因ということが分かっていただけると思います。なので、今回は、これを応用して、リレーでも食べ物を登場させてみようではないかという考えに結ぶ付き、結果的にフランスパンが導き出されました。

 フランスパンを食べたことのある人なら分かっていただけると思いますが、なんせ硬い。硬すぎます。おじいちゃんなら、軽く歯5本は持ってかれます。しかし、この硬さはリレーのバトンとしては武器になり得ます。朝時間ギリギリに起きて、食パン片手に通学している学生はマンガだけの世界しか目にすることがなかった人も、運動会では容易に、パンを握りしめて猛ダッシュする人の姿を飽きるくらい見ることができます。日常ではあまり見ること・体験することのできない姿を見て、皆さんも刺激を与えられてみてはいかがでしょうか。

 

ブーケ 

 ブーケ、つまり花束です。リレーのバトンの代わりにブーケを持って優雅に走るその男の子の姿に、きっと女子生徒たちはときめきを感じること間違いなしでしょう。ブーケを次の走者に渡して走るそのワンカットは、アイドルのPVに出てくるような清涼感や爽快感を漂わせることでしょう。また、アンカーの人が襷を巻いて、ブーケ片手に駆け出す男の子の姿は、彼女を振り向かせるため、雨の中ブーケを持って、猛ダッシュで彼女のもとに行く、まさに映画のワンシーンのような想像を掻き立てられます。

 さらに、ゴールテープが渦巻き、大歓声のなか、アンカーの人は手に持っているブーケを投げ、結構式で花嫁の人が行う“ブーケ・トス”を行えば、もう完全に映画化決定です。ブーケを受け取った女性は、アンカーの男の子と結ばれるという感じで映画は終わります。完全に次回作への伏線です。この時に流れるBGMはAerosmithの「I Don’t Want to Miss a Thing」でしょう。アンカーの人がゴールテープを破ったときのシーンがスローになって、この曲が流れている映像が浮かびます。

 

 

 

…いかがだったでしょうか。個人的には5つ目の“ブーケ”をバトン代わりに使用するのが、一番華があって良いと思いました。卒業写真のイベント欄にも、ブーケが載せられているだけで、なんだか楽しい気持ちになりますもんね。リレーのバトンは金属製の棒からブーケの時代へ。ついにそのときがやって来そうですね!生徒一人ひとりが華をというバトンを繋ぐ…。そして、それは瞬く間に甘酸っぱい恋のバトンへと変わる…。はい。話がだいぶ脱線しましたが、皆さんもリレーのバトンに代わるものを日常生活の中から探してみてはいかがでしょうか。もしかしたら、青春の1ページが再び開花するかも知れませんね。

 

 

 

ではでは!☆☆☆☆

手紙

 ちゃんと元気に生きてるよって伝えるために、両親とは月1くらいで会っているんだけれど、会うたびにほんとに自分は両親に何も親孝行できていないなって思ったりする。そもそも親孝行って何だろうって考えたりするんだけれど、僕はもう生きているだけでれっきとした親孝行だと思っている。こう言うと、自分がまともに親孝行できていないことに対して、言い訳や正当化しているみたいに聞こえて、また自分が嫌になることもあるけれど、生きているという確固たる事実だけで幸せだって思えるし、この世に自分という存在を見出してくれてありがとうって気持ちで胸がいっぱいになったりする。両親の気持ちは、僕が思っている以上に計り知れないし、すべてを知ることは到底不可能だけれど、僕に対する断片的な期待を少しでも汲み取って、これから生きていく糧にしていけたらいいなあって思う。

 最近はよく「好き」っていう、どこまでもあやふやで曖昧な気持ちについて考えることが多くなった。特に今年に入ってから、この言葉を使う機会がとても多くなったのだけれど、発言する回数が多くなるに比例して、この言葉の中核的な意味が分からなくなっている。「好き」という言葉は、一般的には愛情表現としての意味をなす場合が多いと思うんだけれど、軽い気持ちで使ってしまっている自分に少し罪悪感ややるせなさを感じてしまったりする。それと同時にやっぱり、愛を伝える一番ストレートな方法は「好き」って言葉にすることだと思うし、それ以上も以下もないって思っている。普段のふとした行動や、不意に見せる仕草とかで、人は恋に落ちてキュンとしたりすると思うけれど、やっぱりちゃんと言葉にして伝えなきゃ、どれだけ心のなかで想いを募らせたとしても、それは言葉にして伝えていないのと同義なわけであって、だから不器用でも下手くそでもいいから、身体ぜんぶを使って「好き」を共有し合いたいなって思ったこの頃でございます。染めているのか、染まっているのか分からなくて、恋愛って難しいなあって、人間って難しいなあって思いながら、その中に今まで経験したことのない気持ちや思いも数えきれないくらいあって、自分のなかに少しずつ「幸せ」って気持ちが芽生え始めているのを実感するのだけれど、それでもやっぱり不安やプレッシャーは常に付きまとっていて、自分ってとてもめんどくさい人間だなあって思ったりする。でもおそらく、こんな考えはほとんどの人たちが頭のなかで巡らせていると思っているから、みんな同じ不安を抱いているんだって思うだけで、少し気が楽になったように感じたりもする。でも裏を返せば、心のどこかで、他の人より優れている、みたいにちょっとした優越感に浸っている自分がいるような気がして、素直に楽になれないときもある。そういったこと全部ひっくるめて、自分めんどくさいなあって思うけれど、こんな自分もやっぱり好きだったりするし、人間って面白いなあって思ったりする。だから、ずっとずっと大切に思ってくれる人も自分自身も「好き」でいたい。“永遠”なんて絶対ないけれど、少しでもお互いの人生に光を見出せたら、それが一番の幸せなんじゃないかなあって思います。にゃー。猫飼いたい。

 

では☆☆☆☆